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ただ書くために書くということ

土日はここ(note)に書くのを休むことにしたのだけど、長く書かずにいると面倒になるし、書きすぎると大変で、自分の場合は幾つかの方向に毎日のように書いているということは大切で、どういうことかというと、それで書けるようになることがあるのである。書くことは、ことばを介した"運動"なので、たとえばスポーツ選手が毎朝、走るのを止めたらその人の"運動力"は落ちる。書くことも同じだ。

だから土日休むことにしたと言っても、「noteに書く」のを休んでいるだけで、書く営みは延々と続いています。

──そんなに書いて、どうするの?

なんて、先日、「朝のページ」を書いていたら息子にも言われたっけ。思わず笑ってしまったのだけど。

そういうことを大人から言われることも、たまに、ある。はっきり言う人は少ないが、暗に、そういうことを言われる。面白がって言われているような方も、どこか批判を込めて言われているような方もある。ちょっと気にならないわけでもないので、今日はそのことについて書いてみよう。そんな、山のものとも海のものともわからないものを延々と書き続けてどうする? というような、闇の中からの問いかけを耳の奥に感じながら…

あくまでも自分の場合、だけど、毎日、書いていたら、書くことが出てくるのである。

いま、前の文で「書くこと」が出てくると書いた。それが果たして自分の「書きたいこと」かどうかは、よくわからない。「自分が書かなければ、消えてしまうようなこと」だという可能性は、たぶんあるだろう。

ことばを、我が物として、自由自在に、好き勝手に、使うのではないのである。ことばを置いてゆくことが、感じさせてくれるし、考えさせてくれる。書く私は、ことばに仕える者だ。間違えてもその逆にはならない。

「書くこと」が現れなくなったら、その日から、迷わず止めるだろう。

いよいよそんな時が来たとして、自分はどんな気持ちでそれを受け止めるだろう。

清々しい気持ちだろうか、そんなような気もする。苦しいだろうか、そんなような気はあまりしない。ただ、その時が来てみないとわからないことではある。

止めた後にも、自分の人生があるのか、あるいはその時が"死"の瞬間か、あるいは少なくとも"死"を暗示させる瞬間なのか、それも、その時が来てみないとわからない。

そういった書く営みは、私にとって、大事な、大事な基礎である。それが出来ていないと、何を書いても何をやっても何というか上っ面なものにしかならない。上手に書く必要なんかないからまずは自分の「書くこと」と出合うこと、出合えたら辛抱強く付き合ってゆくこと。何年かかってもそれを忘れることはない。なぜか? それが自分にとって「書くこと」だからである。「生きること」と言うと、ちょっとキザかなあ?

生まれてきたこどもを放っておけないでしょう? 手間暇かけて育てる。一緒にご飯を食べて、見守っている。時間をかけて話したり、一緒に旅をしたりする。

(つづく)

読んでくださって、ありがとうございます。

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