楽しき"リハビリ"
6月になった。ということは、今年になって5ヶ月が過ぎた。
元旦に、ここで「なりゆきの新年」を書いた時には、まさか毎日書くことになろうとは思っていなかった。
ぼくは少し書かなければ一生書かなくてもたぶん平気で生きてゆける人で、書かないということは読めないわけだから、読者にも恵まれないが、だからどうした? という気がしている。
それでも書くのはなぜだろうか。
しかも、ここに書いている文章は、自分としてはかなり"いい加減"なもので、気を入れて書いているものは他に幾つもある。
ただし、いい湯加減、という言い方があるように、これくらいの文章がぼくの素に近い(?)ような気もしているという部分もあり… いや、ちがうかな。あーでもない、こーでもない、と書くわけだ。
ここは、ま、スポーツ選手が毎日走っているのと同じ、そのグラウンドのようなものだ。だから本番(試合?)を見るようには読まないでいただきたい。練習をしているんだ、というくらいのつもりで。
でもね、練習に、その人が出ます。たぶん。
その、元旦に何気なく書いたものの中で、ぼくは「なりゆきの風」について書いている。
「なりゆきの風」に吹かれて、あるていど遠くまでゆくのには、センスがいる、とぼくは思っている。
人生の長さを考えると、すぐに倒れてしまっては、困るわけだ。道中のことは多少いい加減でもいいから、できるだけ先まで行ってみたいと思う。
ただ風に吹かれているのでは、ダメなのだ。
しかしここで言っているセンスというのは、難しいものではない。ただ素直に、それを、受け入れられたら一番よい。それが難しいんだと思われるかもしれないし、実際に、そうかもしれないが。
このところ、ぼくは派手に転んでいた。他人がどうこうじゃない。自分の心持ちの問題なのだろうが。
そういう時期は、これまでに何度かあった。ガックリすることもあるよね。仕方ないよ。でも思う存分やった。やれることをやったなら、いくら酷い結果に見舞われても、次の展開はひらける。そうぼくは信じている。というのも、たとえば仕事の結果は、自分ひとりではどうにもならないところがあるからだ。
派手に転ぶと、怪我もする。怪我をしたら、どうすればいいか。治療をして、リハビリをしなければならない。
リハビリは、何度でもやればいいのだ。
『アフリカ』の最初の1冊を出した時も、ぼくは傷ついた自分の"リハビリ"のつもりだった。その"リハビリ"が13年も続いているんだから、可笑しいといえば可笑しい。どうしちゃったんだろう。
"リハビリ"は、しかし、楽しい。というか、困難に見舞われた後は、面白い。ひどい嵐の後だ。嵐の後には、晴天がある。あとはどうやって立て直すかだ。
ぼくは"始める"ことが好きだし、何度でも始めたらよいと思っている。
そしてその先は、じつは、いろんなところから合流してきた川の流れの、その先、"つづき"なんだと思っている。
失敗や挫折、中断によって、途切れない何かもあるのである。ぼくはそれを信じる。
(つづく)
アフリカキカク、今月は幾らか(お見せできる)動きがある予定で、たのしみ。今回は、その“リハビリ”に時間がかかってしまいました。
広島にいる『アフリカ』も引き続きよろしくお願いします(ちなみに、府中の珈琲焙煎舎にはずーっとおりますヨ)。
「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"、1日めくって、6月1日。今日は、冷んやりとしたあれの話。
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