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2人の死者との記念日

今日(4/8)は小川国夫さんの命日で、あれから12年がたった。10年前には(ぼくにとっては府中に移ってすぐのタイミングだったが)『デルタ 小川国夫原作オムニバス』という映画をつくった人たちと出会って、公開の時に少しお手伝いをしたり(やらせてもらったり)した。あれからも、もう10年たったんですね。

小川国夫さんと最後にお会いしたのは2007年の11月で、小川さんの地元の、藤枝市文学館がオープンした直後だった。その時のエピソードは、追悼号になった『アフリカ』2008年7月号の編集後記に少しだけ出てくる(その年の12月号の編集後記では、「まさに「師」と呼べる人だった」と書いている)。

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その時、文学館の特別展では、『アポロンの島』の冒頭に収録されている短編「枯木」の清書(もちろん当時の本人よる)原稿が最初から最後まで全て展示されていて、それをじっくり読み、味わった後、自分もけっこうなマニアになったな、と苦笑いしたものだった。

20代の自分が熱中して読んだ小川文学と、晩年の小川さん自身の姿には、多少ギャップがあったかもしれない。けれど、そのギャップさえも、自分には大きなプレゼントになった。

そのあと小川さん本人と落ち合い、焼津の「黒潮」へ連れて行ってもらい飲んで食べて語り合ったりした。

その頃、ぼくは大阪で会社勤めをしていて、その日は昼までラジオ取材の仕事があり、その道具を持ったまま新幹線に飛び乗って藤枝入りしていた。その道具の中には(会社のものだったが)一眼レフもあった。ぼくは自分ではカメラを所持していなかった。仕事帰りでまっすぐ向かわないと間に合わない状況がなければ、会社の機材を持ってゆくなんて危ない真似はしなかったと思う。ギリギリのスケジュールで行ったから、カメラを持っていて、亡くなる前にもう一度、小川先生に会うこともできた。おまけに、写真を撮らせてもらった。最後、別れる前に、ご自宅にお邪魔して、ポートレートは、対話をしながら、椅子に座っている自分の膝の上に一眼レフを置いて、2回、シャッターを押した。

自分で撮ったのだが、撮った本人からすると「撮らされた」ような気がする。その写真は、その後の自分にとって大切な宝物になった。

その時、何を話していたかは、よく覚えていない。小川さんは琵琶湖に住んでいるらしい大ナマズになりたいと言っていた。テレビで見たんだろう。そんな他愛のない(?)話をして別れた。

ぼくは生きていればそのうちにまた琵琶湖の湖畔にも一度はゆくだろうと思うが、その時にはその話を思い出すかもしれない。

最後にお会いした後、『藤枝文学舎ニュース』から頼まれて、初めて、小川国夫にまつわるエッセイを書いた。「励ましの言葉」というタイトルの、短い文章だったが、それは、小川さん本人も目を通したと聞いた。何と言っていたかとか、そういうことはわからない。

亡くなる1ヶ月前くらいに、電話で話す機会もあったが(それが本当に最後になった)、その時の話は、川村二郎さんの葬儀で横浜に行った際、立って歩けなくなって車椅子に乗せてもらったらしいのだが、その乗り心地というか、感触について語ってくれたというものだった。「絨毯の上をすーっと、なめらかなんだな」と嬉しそうに(?)言っていた。

いまにして思えば、何とも「らしい」話ではないか! 小川先生とぼくは、最後の最後まで、そんな微細な(?)感覚の話をしていた。

Laura Nyro(ローラ・ニーロ)が亡くなってからは、23年がたった。1997年の4月8日没、49歳、まだ若かった。自分から見て、小川国夫は"祖父"だったが、ローラ・ニーロは"母"だった。10代の頃、ローラ・ニーロのレコード(の中の音楽世界)に入り浸っていた自分は、あの音世界を書いてみたい、面白いことにならないか、と思った。そんな若き日の妄想が、30歳を過ぎた頃、「朝のうちに逃げ出した私」という短い小説になった。『アフリカ』にも載ってますけど、こんどできる本に入ります。

自分に大きな影響をもたらした2人の"アーティスト"が、同じ日に(というか日付に)亡くなった、ということを思うと、何だか不思議な気がする(日米では時差がありますけどね、細かいことは抜きにして)。

親しい死者は、いつまでも生きているものだ、と思う。自分が生きている限り、死ぬことはない。

(つづく)

あの大陸とは“あまり”関係がない道草の家のプライベート・プレス『アフリカ』。読む人ひとりひとりの傍にいて、ボソボソ語りかけてくれるような雑誌です(たぶん)。その最新号(vol.30/2020年2月号)、ぼちぼち販売中。


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