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学校教育にとって大切なことは何なのか、ともに考えましょう、という話
スタジオ・ジブリが出している月刊の『熱風』(書店で無料配布しているもの)最新号を読んだ。
表紙を見ると「特集 学校教育を考える」とあるが、『熱風』の「特集」は長めのインタビュー記事が多くて、今回も新井紀子さんへのインタビュー「そもそも子どもの教育を経済成長の手段にしてはならないのです」1本からなる「特集」だ。
うちの子(小2)の学校でも今年の春、タブレットがひとり1台配られて、緊急事態がどうとかで短い時間しか学校に行っていなかった頃には家にもそれを持って帰ってきて勉強していた。どこかの企業がつくったアプリを使った自習と言えばよいか。
見ていると、やっていることは、いわゆるドリルで、プリントでやるのではなくてタブレットでやる、という程度のことだと思った。プリントと違うのはその場で正解がわかるというか、逆に言うと間違えていたらすぐに間違いを指摘してくれて、音がしたり、とまあそういうことだ。
タブレットだから出来ること、といえば、写真が撮れることだろうか。写真で記録して、見返すことができる。しかし学校は、そういうことにはあまり興味がなさそうだった。
新井紀子さんの話を読んでわかったのは、たとえば次のようなことだ。
「教育のデジタル化」のはじまりは2009年の秋に始まる民主党政権で、選挙公約では「紙の教科書で学ぶのが難しい」こどもたちのためにという位置づけだったが、結局は光ファイバー整備のためという、公共事業に利用されるものになってしまった、ということ(その後の自民党政権でもザックリしたことを言うとその方針が受け継がれてきている)。
「デジタル教科書」が導入される教育的な是非については、ほとんど議論されてきていない(現在でも)ということ。
教科書で何をどう取り扱うべきかということや、その内容を子どもたちがどれくらい理解しているかということについて研究している教育学者はほとんどいないのです。
という発言は自分にはショックだった。もしかして、周知の事実ですかね?(知ってました?)
タブレットを使って「どのように教えるか」は議論されても、そのことが、こどもたちにどのような影響を与えるかということについては全くの無関心ということらしいのですが、よくもまあ平気だな(いまの日本人というやつは?)と思う。
タブレット教材(アプリ)は市町村ごと、あるいは学校ごとに業者から提案がなされ、選ばれているということ。つまり検定を経ずに選定されているらしい。この春の(経産省による)タブレット配布は「経済政策」で「配りっぱなし」になっているということ。読んでいて腹わたが…(略)
ただ、AIドリルは、学校へ行けなくなった子や、何らかの学習障害のある子のための、補助的な教材として使うのにはとても効果的でしょう、と新井さんは言っている。そうかもしれない(ドリル・アプリによるだろうけど)。
面白いのは、タブレットに限らず、プリントを配って「穴埋め」をさせるようなやり方にも新井さんは警笛を鳴らしているところで、「板書をノートに写す」ことの教育的効果(重要性)について語っている。
たしかに、自分のノートをつくることは、何かとても大切なことにつながっているような気がする。
いま、「道草の家の文章教室」をやっていて、毎回、いろんな本や雑誌や新聞や何かの冊子や…(エトセトラ)からの文章を「読んでみてください」と渡すようにしているのだが、そのためにコピーをするのではなくて、「書き写す」ことがある。毎回ではなくて時間がある時にしか出来ないのだが、その時間はとても面白い。コピーして読んで、渡す、というのとは全然違う「読む」があるので。
そして読む力であれば『山月記』の行間を読む前に、しっかり「行中」を読めないといけないわけで、大人は「そんなこと、普通できるでしょ」と思いがちですが、その「普通」ができない子がたくさんいるのです。「普通に読む」「普通に書く」「普通に聞く」とはどういうことなのか。それが理論的に把握されないまま進んできてしまったのが、これまでの教育なんです。
新井さんはそう言う。それには全く賛成で、じつは大人でも「普通に読む」「普通に書く」「普通に聞く」を理論的に出来ていない人はたくさんいる。他人事のように言っているようだけど、自分たちの弱いところというか、文章教室をやっていてもそう感じる。そこは、どう話せばいいのか、難しいところなのですが…
新井さんが一番心配しているのは、何と、図工の教科書だそうだ。採択するときに、どの教科書にもデッサンが入っていないから、と。かわりに何があるかというと、インスタレーションが流行っていて、「自由に素材を組み合わせてみましょう」といってインスタレーション・キットが封入されていたりするらしい。なるほど、いまふうというか…?
そこで何が失われるかというと、「見たものを2次元に落とし込む」という「認知的に難しいこと」を経験しておくという基礎なのだ、と新井さんは言う。首を大きく上下に振って頷きながら読んだ。
「学校は生きる力を学ぶ場所」なのだという話からもいろいろと考える。「生きる」ことを肯定することが、こんなにも難しい時代、社会なのだという実感があるからだ。
インタビューを読み終えて、最後の方に出てくる「何もしない自分一人の時間」と「何らかの力」について自分も書いてみよう(そしてどこかで話してみよう)と思う。
書くことについて最後に付け加えると…(ちょっと学校教育の話から逸れますが)
「推敲」について、いつもうまく話せないのだけど、しかし「推敲」ができる人でないと『アフリカ』でも長くは付き合ってゆけないような気がしている。それはなぜか…? やっぱり、推したり引いたりする作業がその人を育て、文章を育てるし、そこには豊かなコミュニケーションがあるからだ。
そのことはやっぱり、たとえば学校の教室で、みんなで何かひとつのことについて深く考えて、話し合ったりすることにつながっているような気がする。
(つづく)