本当か嘘か
最近、ある出来事から、こんなことを考えた。
たとえば、今日のお昼には久しぶりにナポリタンをつくって食べた、と書くとする。
事実か、どうか。
写真を撮って見せたとしても、それが今日の昼であることをどうやって示すか。
信じるか、信じないか、それは、読む人、見る人にかかっている。
そんなことで嘘をついてどうする? と言われるかもしれない(まぁ、そういえばそうだと思うといえば思うけれども)。
極端なことを言えば、たとえば、この自分が、ほんとうにこの自分であることを、どうやって示すか?
ぼくは今日、仕事に出るために家を出て、そのまま仕事とは関係ない方向の電車に乗って、いま遠くまで来ている。いま、そう書いた。これはまったくの嘘なのだが、しかし、嘘だということをどう示そう?
いま、ぼくは道草の家に帰ってきて、これを書いているので、ぼくの隣に来てもらえば、その「遠くまで来ている」が嘘だと簡単にわかる。しかし、これを読んでいる人のほぼ全員がここにはいないので、わかりようがない。
今日は何やら難しい話をしているかもしれない。もう少し辛抱して読んでください。
先日、ぼくは1月までやっていた「オトナのための文章教室」の"後日談"的な会を開いたのだが、近況と、その時間の中で考えたことなんかを書いてきた方がいて、そこに現れてきている、以前のその人には感じられなかったエッセイの切れ味に、ぼくは少々うなった。そこで、「もしこれがフィクションだったとしても…」という話をした。そこに書かれていることが、もし全て嘘だとしても、ここに書かれている試みはとても面白い。響いてくるものがある、と。
さて、誰かに嘘をつかれた、ということがわかったら、どうだろうか。
嘘にも、面白い嘘とか、頭にくる嘘とか、いろんな嘘があるんだろうという気がする。
書くのが上手くなって、人を騙すのが妙に上手くなるってのも、な〜んか嫌だなぁ。やっぱり書く技術ってのにかんしては、あるていど下手な方がいいような気がする。変に上手くない方がいいというか。
そう考える一方で、明らかに嘘だとわかっているのに、さぞかしそれが本当のことのように感じられている、という文章もある。
嘘なのに、嘘ではないと感じている。それは、嘘ではないんだろう。
逆に、本当のことなのに、嘘だと感じられてしまうこともある。それは、やっぱり最終的には嘘になるのかな(本当だけれど嘘だと)。つまり、ある種の悲劇、になるんだろうか。
事実を浮かび上がらせることばと、事実を沈ませてしまうことばがある、ということかもしれない。
沈ませるのではなく浮かび上がらせたいなら、上手くなる必要はない、とあらためて思った。
書き手は何かを受け止めて、そこに置くだけでよい。そこに置かれたものが本物か偽物かは、読む人にはわかる。必ず伝わっている。感じられる。それをコントロールできると思い込むことは、書き手にとって自殺行為なんだ。
(つづく)
「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"、1日めくって、6月12日。今日は、息子がつくったまゆ細工のシャチと、死んだ蚕の蛹を見た話。
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