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ちいさな道をつくろう

何も書く気がしない。そんな時でも(いまがそうなのだが)とりあえず書き始める。書き始めると、なくしていたはずの力が、少し蘇ってくる。

このままでは暮らしてゆけなくなりそうだ。政府も相変わらずアテにならない。しかしいまはそんなことより、「もう少し生きていよう」「生きて、また会おう」ということの方をよく思う。祈るように、思っている。生きてさえいれば、あとは何とかするさ、と。

不要不急の外出自粛を要請する、といった話を、奇妙なことだと思いながら見ている。やめろと言われてやめるなら自粛とは言わない。しかしそこには日本社会らしいねじれ(?)があるらしくて、「やめても、やめなくてもいいが、やめた方がいいよ。でも、あなたの勝手だ」ということらしい。簡単に言うと、脅し、か。

おそらく、これまでの社会システムが、通用しない時期に入った。さ、これから、どんなアイデアが出せるかだ! と、少し張り切ってみたい気持ちも自分にはある。

これが1ヶ月で終われば、耐えて待てばよいことだろうが、半年なのか、1年なのか、もっとなのか、ずっと続くとなると、ただ耐えていろというわけにゆかなくなる。それが日常になるからだ。

そこにも自分の仕事はある。つくれる。と、信じている。生きてゆくために、信じたいのだ。

とはいえ、まだまだ始まったばかりで、気持ちも、腰も、重い。重いなぁ。そうでなくても何かを始めるのには重い腰が付き物である。いつもよりさらに重い? いや、そうでもないかな…

いまは、インターネットの存在のありがたみを、ひしひしと感じている(インターネットを通じてウィルスに感染することはない)。いまはウェブのツールをこれまで以上に積極的に使えばよい、と。しかし、そこにも光と影があるということを、忘れないでいよう。

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晴れている日は、散歩に出ることにしている。たいていは息子と一緒に。昨日、歩いていたら、息子がぼくの手をひいて、「これ、ねこのみちだよ」と教えてくれた。見ると、たしかに、ちいさな道ができている。

道草の家(我が家)は路地の奥にあるのだが、その一帯は、野良猫の王国だ。ぼくは他にも猫の道をいくつか知っているが、この道には昨日まで気づかなかった。

見方によっては道があるとは全く思われないところに、ちいさな道をひらこう。──そう考えると、少し気持ちが明るくなる。

(つづく)

あの大陸とは“あまり”関係がない道草の家のプライベート・プレス『アフリカ』。読む人ひとりひとりの傍にいて、ボソボソ語りかけてくれるような雑誌です(たぶん)。その最新号(vol.30/2020年2月号)、ぼちぼち販売中。


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