見出し画像

自分の中に生き続けている"こども"の話

以前、『アフリカ』に載せた「「外出」という仕事」(無料で読める「ウェブ・アフリカ」vol.1にも載ってます)の最後のほうに登場する(知的障害のある)青年にはモデルがあり(というかあの話に登場する人たちには全員モデルがあるのだけれど)、その人とはいまでも毎週のように会っている。

 また、ある人は、不思議なかしこさを持っている。たとえば、これはいつものことなのだけれど、
 ──これを食べると、大きくなる?
 彼は、少なくとも彼のことばのうえでは、ずっと子どものままでいたいのだ。いい育ち方をしたのがよくわかる。そういう人に触れていると、こちらは心地よいかもしれないが、彼は大変だ。それを食べると「大きくなる」のであれば、彼はそれを食べられない。それというのは、たとえば、饅頭一個だったりする。

「「外出」という仕事」から少し引用したが、"大きくなる"というのは、具体的には(というか何というか)"大人になる"ことなのだ。饅頭一個食べるだけで"大人"になれるのであれば楽なものだが、彼にとってはその楽なのがよくない。大人になるのがものすごく大変なことなら、大人になってしまうと心配することもないから。

最近はぼくも「"大人"になりたくない」と思ってしまったので、彼に「大人にならないようにするにはどうすればいいでしょうか?」とご教授願っているのだが、なかなか相手にしてくれない。

もっとも、彼は「"大人"になりたくない」のではなくて、「"大人"になりたくない」ということばにこだわっているだけなのではないか、という気も最近はしているのだが… ただ、彼に限らず、人の中には"こども"が生き続けているんだなぁということは、よく思う。

"こども"が泣いていると、ぼくも悲しい。こどもは、優しくされたい、と願っている。だから、大人になったぼくは、ぼくの中に生き続けてている"こども"にも、優しくしてあげたいと思う。

毎日、毎日、優しくしてあげる、とだけ言っていられないという現実もある。それは現実の(?)我が子に対する場合と同じ。というか、自分の中にいる"こども"は、忘れられやすいから、意識してたまに声をかけてやるくらいの心がけが必要だ。──というかなんというか、むにゃむにゃ、まぁそんな感じではないか。

だから、たまに、自分ひとりの時間をつくって、"こども"の要求を聞いてあげる。

たとえば幼い子がいると、それも難しいと言われるかもしれないが、ほんの少しの時間でいい。できることだけね、と、いまは我慢してもらわなければならないこともあるだろうが、話を聞いてあげるだけで"こども"は嬉しい。

とにかく話を聞いてあげる。

どこか行きたい場所があるかもしれないし、朝寝をしたいかもしれない。何か買ってほしいものがあるかもしれない。うちは貧しいので、贅沢はできないが、"こども"はお金を欲しいわけではない。ほんとうに贅沢なことは、けっしてお金で買えるようなものではないということは、じつは誰もが知っていることだ。

(つづく)

「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"は、1日めくって、2月16日。今日は、主婦の"精神安定剤"の話。※毎日だいたい朝に更新しています。

いいなと思ったら応援しよう!