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深めあう孤独

書いたものは通常、人に通じない。わかってもらえることは滅多にない。でも、通じさせるために詩の腰を低くしてはいけない。そこまでして増えた読者になんの意味があるだろう。詩を作り、手渡すことの厳粛さに立ち戻る。書き手と読者の関係は、深めあう孤独でありたい。(松下郁男)

「活字の断食」の話のつづき。

「読む」を止めると、というより、文字情報を受け取るのを控えると、とにかく静かだ。暮らしが、穏やかになるというか。

それは社会の現実が穏やかでないということを示してもいるだろうし、そこで過ごしている自分自身が穏やかでないとも言える。

とはいえ、原稿に"取り組む"のは止めないでいた、ということは前にも書いた。原稿もいちおう「読む」ので、そこでの「読む」のは止めていなかったわけで、「活字の断食」をしている気分があまりしなかったというのもまあ正直なところなのだが、それでも普段とは全く違う感じになる。「読む」を制限することで、逆に「読む」が生き生きとし始めるということもある。

いまは、「つながる」や「集まる」が、とても価値のあることのように思われているかもしれない。しかし、そこには少し異論あり、「つながらない」ことや「ひとりでいる」ことの中に実りを感じられなければ、いくら「つながる」ことができても、「集まる」ことができても、虚しくないかと私は思っている。

そこに、自立した、本当の自分がいるか、いや、いられるか、どうかではないか。

(つづく)


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