手紙を書く、手紙を読む
彼女が真剣に聞いてくれたせいで、何度も話したこの話が素晴らしい輝きを得た。(ナタリー・ゴールドバーグ)
20代のはじめ頃には、よく手紙を書いた。それは、ぼくが小説というものを書き始めたころに重なる。小説と呼んでいるのは、自分にとっては、エッセイとか詩とか評論とか、いろんなものを含んだ広義の小説で、人によってはそれが詩になったりエッセイになったり評論になったりするだろう。自分にとっては、そんなことも全て包み込んでしまうような、手紙という媒体があった。
書ける時というのは、手紙をよく書いている時なのかもしれない、ということを今回、あらためて思い出したところだ。
先月、「活字の断食」をした時に、映画『TOVE』を観た。それがきっかけで、手元にあったトーベ・ヤンソンの画集をあらためて観ているうちに、彼女の小説を読みたくなり(じつはこれまで殆ど読んだことがなかった)、ちくま文庫の『トーベ・ヤンソン短編集』を買って読んでいるのだが、すーっと一気に心の深いところまで来てくれた。
寂しさとか、喪失の悲しみとか、そういったことが具体的に書かれずとも、読んでいる自分にはとてもよく感じられる。トーベ・ヤンソンは少なくとも文章を書く時には、推敲を重ねて、削ってゆくひとであったようだ。読んでいるだけでそれがとてもよくわかる(詳しくないのだが、そういうことの研究もすでに行われていることだろう)。
そのトーベ・ヤンソンも、膨大な数の手紙を残しているそうだ。手紙が小説のベースになっている場合があるという話を今日、少し読んだところだ。
先週、富士正晴の話を少し書いたけれど、富士さんも膨大な手紙を残しているし、他人の残した膨大な手紙を編集して本を書いたりもしている。
手紙では、自分がどこから発信しているかを隠すことができない。他人事のように言うことができない。なぜか。手紙には必ず宛先があるからだ。しかし、どんな文章にも、本当は必ず宛先がある。そのひと、その存在を意識するだけで、ことばが一気に熱を持ち始める。
手紙は書くのもいいけれど、もちろん読むのもいい。くり返し読んでいる。
(つづく)
今週もぼちぼち書きます。