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必要な苦しさの話
今までずっと小説を書いてきて、ここで打ち明けても仕方ないが、私は書くことがあんまり好きではないほうだ。できることなら書くよりは、書かないで普通にしているほうが好きである。書き手であるよりは、読み手のほうでいたい。生来の怠け者だし、それに純粋読者でいるのは楽しいものだ。(村田喜代子「快感のワニ」より)
昨日は、「どうして我々が自分の本ではなく他人の本を出そうと考えるのかという話を書いておこうと思います」と書いておきながら、最後に話が少し逸れたような気がしましたが、しかし逸れる方が自然な感じがして、そのままにしました。
この人の、この作品を本にしたい、と考えるからに決まっているからです。つまり読者としては自然な発想です。これを本にして、持っていたい、と。自分の書いたものにかんしては、そんなふうにはゆかないかもしれません。だから本にする仕事は、自分が良いと思う他人の作品にかんして、やればいいんだ、という気が私はしています。
私は今度の本でも、雑誌『アフリカ』にかんしても、アフリカキカクでの他の本づくりにかんしても、自分の作品を出したいから、という動機ではやれなかったはずだと書いています(どこかに書いてあったはず)。
それに私は自作を書くことに、それほど執着していないような気がします。でも毎日、何かは書いているわけで、青木野枝さんが彫刻家としての自分を支えていることとして、彫刻の素材としての鉄を切る(溶断する)作業の歓びを挙げているのを先日聞きましたが、そのことには私は大きな共鳴があります。
作品をつくることには、苦しい感じも多分にあります。だから、離れたくなることもある。苦しいのは、嫌だから。でも、例えば小説を書くことでしか描けない、感じられない何かがあるんです。それがあるから、止むを得ず、小説を書くことに向かったりする。ご苦労なことです。その苦しさを正面から受け止めていない人の書いた小説は、どこか弱いだろうなと思う。苦しさも、なければなりません。
一方で、読むのは、書くことに比べて楽だな、と思うことが少なくありません。書くのはあんなに大変なのにね、読むのは、本が自分のかわりに考えてくれたりもするし、楽なこった、と。しかし読むのが大変な本もあるんです。そういう本を書くのは、ほんとうに大変なことでしょう。大変なのは嫌でもあるけれど、でも、ほんとうに書きたくて、読みたいのは、そんな本ではないかと思っています。
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見たいけれどこの世界にないもの。
それをつくっている。
それが私にとっての彫刻なのだと思う。
彫刻をこの世界にたてる。
その中に入って行く。
その中を歩く。
立ち止まって見上げたりする。
すると、初めて見る景色が広がっている。
(つづく)
ウェブマガジン「水牛」の毎月1日更新のコンテンツ「水牛のように」で、下窪俊哉が2021年7月から連載している「『アフリカ』を続けて」の(1)から(33)までをまとめた ① が1冊になりました! BASEショップを中心に少部数をじわ〜っと発売中。読んでみたい方からのご注文をお待ちしています。
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