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『真夜中の五分前』                           第5回 電動バイクのきみが好き


深掘り考察記事です
おもいきりネタバレしますのでご注意ください
―基本的に敬称略 ‟春馬くん“だけ例外



——黒バックに ‟行定 勲 監督作品” の白抜き文字
ピアノの音がぽ~んと鳴り、時計の音がコチコチし始める
七宝の置時計、ガラスが割れ風に激しく揺れるカーテン
テーブルの上のオモチャのメリーゴーラウンド
部屋の中をカメラの眼が移動していく
そこに柔らかく震えるように重なる中国語——
美しく静かで、そして哀しい愛の物語はこうして始まった。
最初のピアノの音を聞いただけで鼻の奥がツンとする。
あくまでも美しく静謐な映画。

—— ‟深夜前的五分”  
中国語の文字がピアノの音につれ
‟真夜中の五分前” へと一つずつポツンポツンッと入れ替わる
コチコチと小さく時計が鼓動している
暗い店内から小さなガラスのショーケースへ
カメラの眼は右から左へ静かに移動して途中で反転
今度は右に向かって動き出す——
その穏やかさと緊張感。
そしてカメラは、額縁のように切り取られた木製の棚の向こう側で
下を向き手を動かす人物を映し出す。

——古い時計店のけだるい午後
黄白緑青のステンドグラスを通した淡い光が満ちる店内
白衣を着て目にルーペをはめ、小さな時計の部品をいじっている青年は
客が来ても顔を上げずに細かい作業に没頭している——
セピアがかった色調の画面。
美しく流れるような青年の手指の動き。

そして仕事終わり。店の横から小さな電動バイクを出してきてウィ~ンと走り出す青年。路地裏でカメラの視点は徐々に上昇し、道を挟んだ建物の間に張られたロープ(電線?)に干された洗濯物と、バイクに乗った青年の小さくなっていく背中を映し出す。

はじまりのこの数分間が好きで好きで、何度、繰り返し観たことだろう。
春馬くんも、このオープニングの流れがすごく好きだって💘
2024年7月7日23:55現在、いちばん好きな春馬くん出演作は『真夜中の五分前』、そう、この映画である。

       ◆

最初に撮影されたのは、プール入り口横のイスでの印象的なあのシーンだという。
2013年10月25日、晩秋の上海。中国から劉詩詩(リウ・シーシー)、台湾から張孝全(チャン・シュアチュアン)、そして日本を飛び出した三浦春馬という若きアジアの希望と、年を重ね卓越した才能がいっぱい詰まったこの作品は動き出した。今からほんの11年前のことである。

観るたびに考えが揺らぐ摩訶不思議な映画。
第4回でまとめを書いて深掘り考察記事はそれで終わるつもりだったのに、新たな考えが突如降ってわいてきて、その考察にまるまる1回分を費やしてしまったが、さて、そろそろ締めくくりに入ることにしよう。

行定監督と台湾ニューシネマ
初めてこの作品を観たとき、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の名が頭に浮かんだ。昔よく観ていて大好きだった台湾映画の監督だ。
1980年代から90年代に、従来の商業ベースではない台湾社会をより深く掘り下げたテーマの映画を生み出そうと展開された一連の運動である‟台湾ニューシネマ”。それを担う監督として、『悲情城市』(1989年)や『戯夢人生』(1993年)といった名作を次々と発表していたのが侯孝賢である。

映画『真夜中の五分前』にはその頃の匂いがした。
ちょっとくすんだ画面の色、抑えめな声のトーン、緩やかな動きと話の進み具合。
古き良き時代を彷彿とさせるつくりがそう感じさせるのだろうか。
舞台とことばが中華圏、中華系ということはもちろんあるけれど、それだけではなく、光と影の淡さやテンポ、大げさではない物語の進み方などが似ていると思った。

行定勲監督がその台湾ニューシネマのファンというだけでなく、自身がその中に身を置いたことがあるというのは最近知った。
行定監督が林海象監督の助手時代に、林監督と交流のあった楊徳昌(エドワード・ヤン)監督の『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』(1991)の撮影現場を手伝い、杜篤之(ドゥー・ドゥージ)の録音技術に驚嘆したこと。
『真夜中の五分前』をアジア映画としてつくることになったとき、信頼のおける人として憧れであったその杜篤之に、サウンドディレクターとして真っ先にオファーしたということ。
上海の喧騒の中での撮影で、役者の声も拾えないかと危惧されるのを彼は見事、春馬くんたちの声を救い出してくれたということ。
そして、この映画の世界を美しく豊かにふくらませている音楽を担当したパリ在住の半野喜弘もまた、侯孝賢や賈樟柯 (ジャ・ジャンクー)監督作品に参加しているということ。
アジア映画に育てられてきたので恩返しがしたいと言う行定監督は、そういったエピソードをDVDコメンタリーやインタビューで披露してくれている。

2013年に撮影された春馬くん主演の映画が、何十年も前の往年の名作とつながりがあることを知り、とても心に響いた。
台湾ニューシネマが好きだった私が『真夜中の五分前』に魅かれるわけも、きっとそこにあるのだろうと感慨深い。

行定監督が林海象(はやしかいぞう)監督の助手をしていたということにも驚いた。
その林海象の初監督作品、1986年公開の『夢見るように眠りたい』は当時大好きだった映画で、これにも行定監督は関わりがあったと知り、時空を超えたつながりを感じた。
贔屓の音楽家が音楽担当で出演もしており、さらに知り合いがこの映画のスチール撮影をしていたという縁で知った作品なのだが、これも言ってみれば古き良き時代を彷彿とさせる映画だ。
先日、なんと38年ぶりに配信で観ることができたのだが、まったく色褪せていなかった。いや、色はもともと付いていないモノクロ、サイレント映画なのではあるが… 

日本映画の問題点
台湾ニューシネマが1980年から90年代、『夢見るように眠りたい』が 1986年、その頃、観ていた邦画は森田芳光、相米慎二、大林信彦、鈴木清順などの監督作品でほとんどが1980年代の作品だ。
よく通ったのは封切館ではなくもっぱら名画座だったから、公開されてすぐに観たものより数年経ってから観たもののほうが多いはずだ。だとしても、2000年になる前には日本映画自体に興味を持てなくなっていた。
映画である必要を感じられない作品ばかりになり、どうしても観たいと思える映画と出会えなくなってしまった。
それ以来約25年、とくに邦画のフィクションは数えるほどしか観ていない。

「日本では分かりやすさをプロデューサーたちが求める傾向にありますが、それは映画を観る楽しみを半分奪っていると思っています。この映画では、分かりやすさを求めたわけではありません」
(2014.10.4  第19回釜山国際映画祭ティーチイン行定勲監督の言葉より。出典:「真夜中の五分前」公式サイト 原文ママ)

『真夜中の五分前』を最初に企画したとき、最後にどちらなのかがわかるようにしてほしいと要求され、とん挫したと行定監督はいろいろな場所で話している。
つくる側の問題として監督は言っているようだが、問題の本質は観る側にあるのではないか。観る側がそれを求めているとつくる側が受け取っているからそうなるのではないか。
人気の若手俳優が出る甘い恋愛もの、難解ではなくわかりやすいもの、多くの人が泣けるもの…

『真夜中の五分前』の評価は当時どうだったか。
中国では 約4,000 という破格のスクリーン数での公開だったが、興行成績としてはあまり振るわなかったらしい。
そして、日本では大コケしたという監督のことばに唖然とした。
こういう作品を評価できないってどういうことなんだろう。

観る側が若い人気俳優に求めているものはなんなのか。
つくる側だけでなく観る側も質を高めていかないと、日本映画の世界は萎んでいってしまうのではないか。
『東京公園』の青山真治監督も、コロナ禍下の日記に邦画界の行く末を憂慮することばを何度か記している。
私が日本映画と訣別したときからなにも変わっていない。
今の私にとって救いは春馬くんの作品だけだ。

静かなる表現力
沼にハマって3年半。毎日毎日、春馬くん出演の映画やドラマを何度も繰り返し観てきた。25年間、日本の映画もドラマもほぼ観ていないのに、好きな俳優もいなかったのに…
ホントに不思議なのだが、まったく飽きるということがない。観れば観るほど好きになる。観れば観るほど気づくことがある。
これが、相田冬ニ氏の言う「基本的にボディブロー型の演技ファイターであり、後々、パンチが効いてくる」ということなのだろうか。

『真夜中の五分前』で良を演じる春馬くんをどうやって讃えたらいいのだろう。春馬くんの表現のすばらしさを伝える方法がわからない。とにかく観て欲しいとだけ言いたい。
いつかうまく書けるようになったらマルマル一本、春馬くんの芝居を讃える文を書きたいと思っているのだが、今はまだむずかしい。
でも、ひとつだけどうしても書いておきたいことがある。

       ◆

春馬くん自身も印象的だという電動バイクで走るシーンについて。
同じような画であっても、置かれた状況によって良の表情がそれぞれちがっていて面白いと語っている。
この魅力的な表情をじっくりと鑑賞しよう。

バイクで街中を走るシーンは6回。
1)仕事終わりにプールへ行く良。
日課のプール行きだが、とくに楽しみにしているわけでもなさそうだ。いつもと同様、ただ乗っている。その美しくもつまらなそうな表情。街角に大きな美女のポスターが貼られるのを見ても心は動かない。

2)探してと頼まれたプレゼントが見つからず、困った良が自分の働く時計店にルオランを乗せ連れて行く。
表情はよく見えないが、仕方なく女性を後ろに乗せているだけといった風情か。

3)プレゼントが置き時計に決まり、タクシーの拾える道までルオランを乗せ送っていく良。
至極真面目な顔つきである。後ろに女性を乗せているので緊張しているのだろうか。うれしそうではないが、つまらなそうでもない。

4)野外上映で心が通い合った2人が街を走る。ルオランは良の腰に手を回し、背中に顔を押し当てている。
これまでの表情とは一変し、良の顔にうれしさが滲む。

5)1年後、ルオランと行った野外上映にルーメイを連れて行く良。腰に手を回していないルーメイ。
今、後ろにいるのはルーメイかルオラン、どちらだと思っているのか。良の表情は見えない。映画の間は硬い表情、手を繋ぐのも躊躇する。

6)ルーメイを探して夜の街をひとり走る良。
いなくなったのは自分のせいだと必死に探し回る。後悔の念が込み上げ、心配そうな目には涙が浮かぶ。

唯一、うれしさが見える表情の4)。なんの感情もないかのような1)と比べて明らかに表情はちがうのだが、大げさに表情を変えてはいないので、顔の筋肉のどこがどれほど動いたのだかよくわからない。両方の画を何度も何度も見比べてみても、口元が上がったのかどうかもはっきりとは見て取れない。だが確実に表情は柔らかくなっていて、幸せそうに見える。
どこがどう動いているのかわからなくても、うれしさって表現できるものなんだな。

口元がほんの少し動いたかどうかという微妙な表情を『アンフェア』最終話(2006年3月放送)で見つけて驚愕したことを思い出す。

ユタカ(三浦春馬)が兄と慕うかずにぃ(安藤一之/瑛太)にとっても養護施設でともに育ったユタカは大切な家族だった。そのユタカを雪平刑事に殺されて復讐に燃えるかずにぃ。
店長を殺そうとしているかずにぃは、パチンコ屋の階段でユタカの幻影を見る。
「かずにぃ」と声をかけたユタカはそのとき一瞬、微笑んだのだ。微笑みと言っていいのかどうかさえわからないくらいの微妙な口元の動きだった。だが明らかに表情が和らいだのだ。スローモーションで見ると、たしかに口元がほんの少しだけ上に動いている。1ミリだか2ミリだかわからないくらいほんの少しだけ…
それを見て一瞬、顔をゆがめるかずにぃ。

15歳の少年の、いったいどこにこれほどの微妙な表現力が隠れていたのかと驚かされる。出番の少ない作品だったが、とても強い印象を残した。
それから8年。電動バイクに乗る良の表情にはさらに磨きがかかり、繊細でとても美しいものになっている。

自転車に乗る春馬くんはものすごくかっこいい。ヒロ、拓斗、修二先生…
かっこよく自転車に乗っているのは、たいてい気分のいいときだ。悲しい気分のときにはかっこよく颯爽とは走れない。
けれど電動バイクはちがう。電動バイクには悲しみも似合うと知った。

『奈緒子』の深掘り考察記事にも書いたが、春馬くんの表情の細やかさは驚愕に値する。大げさな表情はしない。むしろ抑えて抑えて、感情を外に出さないようにしているのではないかとさえ思えるほどだ。
だからか私も最初はそれを検知できなかった。ほかのことに気を取られ見落としていたのだ。

       ◆

日本の映画、ドラマは大きな芝居を好む傾向があるとよく言われる。
それはだれにでもわかりやすいからだろう。そして、そういった大げさな芝居をうまいと受け取ってしまう。
だが、大げさな表現ばかり見ていると、細やかな表情の変化などを感じ取ることができなくなってしまうのではないか。
静かで繊細な演技を受け取ることができないのは観る側の問題で、好き嫌いとは別に、映画を見るには技巧や修練といったものも必要なのである。
こういう作品がまっとうに評価されるようになったらいいのにと願う。
今からでも遅くない。配信という大きく便利な手段がある現代だから、世界中で観て評価して欲しいものだ。

日本の映画界、テレビ界、そして観る側も三浦春馬という役者の演技をきちんと評価してきたのだろうか。この4年近く彼の演技を観つづけてきて、どうしても心に重く沈殿するのはこの疑問なのである。

小説と映画、そして双子という存在
小説『真夜中の五分前』は、映画とはずいぶん雰囲気のちがう作品だ。
小説は双子の同一性がもっと濃い感じがする。その割には事故後、残ったひとりがどちらなのかわからないというとき、当人の困惑があまり強く感じられない。
ホラー色、ミステリー色が少し強いように感じる。
映画では小説よりも哀しみが強く表わされている。
この現代的な話から、よくあの映画になったものだと脚本と監督の力に感嘆する。
いちばんのポイントは、主人公を時計修理士に、舞台を古い時計店にしたことだろう。これにより「時」というものに無理なく焦点を合わせることができるようになった。

そして、頭にいつまでも引っかかって離れないのは双子という不思議な存在である。もっともミステリアスなのは容姿も性格もそっくりな双子なのではないだろうか。

紆余曲折の末、最後の最後にやっとたどり着いた結論は、ルオランの疑惑をいっさい否定し、彼女の中の邪悪な感情は小さく芽が出るだけで大きく育つことはなかった、と解釈の中からミステリー要素を排除したけれど、そう結論を出した自分が言うのもなんだが、それはかなり単純な見方である。

この話を不可解なものにしているのは、ルーメイがルオランのように見えるからだろう。
ルオランに憧れと嫉妬の入り混じった複雑な感情をいだいていたルーメイ。そのルオランがいなくなり、ルーメイの心の中にはいったいなにが起こったのか。
窓ガラスを割ったのもブランコから落ちてケガをしたのも、ルオランと同じ記憶を持つルーメイ。
どこかで記憶の取りちがいは起きたのだろうか。

不思議な映画である。
今回のはじめのほうに「あくまでも美しく静謐な映画」と書いたが、それは嘘である。いや、観ている分にはたしかにそうなのだが、考え出すと思考は双子の持つ暗闇のほうへじりじりと向かっていってしまう。
双子の間には、はかりしれない闇が愛のとなりに静かに横たわっているものなのだろうか。

あっ、また別のストーリーが浮かんできた。
それも、こんどのは今まででいちばん邪悪な内容である。
ルーメイが…
                            〈おわり〉



映画『真夜中の五分前』、ストーリーの深掘り考察は👇

春馬くん応援宣言
春馬くんのこれまでの旅路とこれからの長い旅を応援していこう
まだ会っていない人が春馬くんと出会えるよう
世の中が春馬くんを忘れてしまわぬよう
そのきっかけとなれるように祈りを込めて

@マンゴの“ちょいと深掘り”-三浦春馬出演作品を観る⑫
『真夜中の五分前』第5回  電動バイクのきみが好き
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