『真夜中の五分前』 第4回 突然、新たな考えが
―深掘り考察記事です
―おもいきりネタバレしますのでご注意ください
真夜中のパーティー
2021年4月。ここ‟note“上では『真夜中の五分前』のパーティーがたいへんな盛り上がりを見せていた。映画を語り、謎を探り、良を演じる春馬くんを愛でて多くの人が思いのたけを発していたが、まだ観ていない私はそこに参加することもできず、ただひたすら読むばかりで、頭の中は情報で満杯だった。
初めて観たのは2022年2月。すでに1年近くが経っていて、その頃にはもうパーティーはお開き状態だったが、どうしても思いついたことをまとめておきたいと、どこに発表するあてもないままに長々と考えを綴った。
そして、一大決心の末 ‟note“への投稿を始めた去年7月。『東京公園』の深掘り考察記事の次は『真夜中の五分前』にすると決めた。だれも気づいていない解釈で、かなりいい線いってるんじゃないかと自負があった。
今回投稿した第1回から第3回の文章は2年前のそのとき書いたもので、細かいところには手を入れたけれど、大筋はまったく変えていない。
これはこのままで完璧なはずだった。
『東京公園』同様、『真夜中の五分前』もストーリーについての考察しか書いていなかったので、春馬くんのことや映画全体についてなどを書き足そうと思い、さてどうやってまとめようかと考えていたら、思いもかけないことが起こった。
なんと、新たな考えが浮かんだのである。
ルオランの念
最後のまとめを書こうと、これまでの文章を読みなおしていた。するとある一節が急に頭に浮かんできた。それは第2回の序盤、「ルオランの本当の気持ち」を読んでいるときのことだった。
「ルーメイになる決意をしたルオランはティエンルンにもらった服で良に会い、心の中で別れを告げた。けれどモーリシャスの明るい空の下でその考えは消えていった…」
この文のあとに、浮かんだその一節を付け加えたいと思った。
「…けれどモーリシャスの明るい空の下でその考えは消えていった。いや、最初からそんな気はまったくなかったのかもしれない」
自分でもよくわからないのだが、なぜかそのときはそれ以上深く考えなかった。ただそこにその一節を加えたいと思っただけで、それがどういう意味を持つのかさえ考えなかった。そして、しばらくそのままにしておいたのだがある朝、突然ピカーッとひらめいた。
そうか! ルオランは一度もルーメイになろうなどとは思っていなかったのか。
生き残ったのはルオランではなくルーメイだと考えを変えたときも、妹になり代わって妹の人生を乗っ取ろうとしていた、というルオランの黒い思いに疑問を感じることもなく、そこを変更しようなどとはまったく思いつきもしなかった。
ルオランはそういう気持ちを心に秘めてルーメイとモーリシャスへ行ったのだとずっと思っていた。このストーリーの根底にはそれがあると思い込んでいた。
だが、まとめを書こうというこの段階にきて、突然それがひっくり返った。
どうしてこのタイミングだったのか不思議なのだが、ルオランが空の上から「それは誤解なの。なんとかして欲しい」と念をかけたのかもしれない。
自分の目で見ていないのに信じてしまう
思い出してみよう。
4人でゴルフをした日の夜、ルーメイに反発して外に飛び出したルオランが苦しい胸の内を良に吐き出す。
「私の選ぶ人生は いつも彼女に奪われる そのたびに私は私でなくなっていく 演技に興味を持ったのも私が先だった ティエンルンと出会ったのも 何度も思ったわ 彼女に消えて欲しいって そんな自分がイヤ 私が消えればいい そうなの?」
「(ルーメイに)消えて欲しいって何度も思った」とルオランは言っているが「そんな自分がイヤ。私が消えればいいの?」とすぐに言い換えている。
ルーメイになりたいなどとも言っていないし、そういった類の言動はこのあともいっさい見られない。
ではなぜ、ルオランはルーメイになり代わりたいと考えていると私は思ったのか。
それはこの2つの場面のせいだろう。
ティエンルンが買った服をルーメイと間違えてルオランに渡した場面と、ルオランがその服を着て良に会いモーリシャスに行くと告げたあと、良の部屋の鏡に自分の姿を映している場面。
ここに深い意味があると感じて劇的な展開を想像した。
「彼が気づかないのなら自分がルーメイになればいい。そうすれば彼女に奪われてきた人生を取り戻すことができる」
証拠はない。思わせぶりな場面があるだけ。それだけなのに、なぜルオランが殺人を犯しているかもしれないとまで想像したのか。
ルオランの意味ありげな表情、謎の行動、双子が何度も入れ代わる映像、そして不安を煽るような音楽。解釈をサスペンスに持っていくには十分な要素を与えられてしまったようだ。
ではなぜ、その考えをひっくり返すのか。
理由はわからない。やはり、ルオランが念をかけてきたとしか言いようがない。
生き残ったのがどちらなのかわからないのと同様、ルオランがルーメイになり代わりたかったのかどうかもまったくわからない。証拠となり得るものがなにもないのだから、証明するすべはない。
だが証拠がないのなら、これを否定することは可能である。
そこで私は両方を天秤にかけてみた。
ルオランは妹ルーメイの人生を乗っ取りたいと考えるような人なのか否か。
今、答えは明確に「否」である。
話を劇的に面白くするためではなく、ルオランという人を人として見てみたら、そういう結論になったと言えるかもしれない。
2つの場面をどうとらえるかで、この映画の解釈は大きくちがってくる。
つくり手側の思惑に引っ張られてルオランに疑念を持ち、生き残ったのは彼女だと結論づけた人、そんな仕掛けには最初からのせられずに見たままを信じ、生き残ったのはルーメイだと思った人とに分かれるのだろう。
そして生き残ったのはルオランだと一度は思いながら、なんらかの理由でそうではないと思いなおして考えを変えた私のような人も、どこかにはきっといるにちがいない。
他人のことばを鵜呑みにする
観ている側の思い込みがストーリーを作る。映画の冒頭からこれはすでに始まっている。
どこにもそんな説明はないはずだが、ガラスを割った赤い服の女の子がルーメイで、青い服を着ていて罪をかぶせられた女の子がルオランだと思った人は多いのではないか。
私もそうだったが、それはどうしてだろう。
ルオランはおとなしくルーメイは活発、と予告や記事などで言われていることを鵜呑みにしたからではないか。
そして、4人で行ったゴルフ場で赤い服を着ているのがルーメイ、青い服がルオラン。これでさらにその思いは強固になる。
しかし、ここにも証拠となるものはなにもないので、逆の解釈もできるはずだ。
石を投げて窓ガラスを割ったのはルオラン、その罪をかぶせられたのがルーメイ。大人になったルオランがプールに浮かびながらそれを思い出し、わずかに微笑む。
映画後半、「ルオランに言われて服を取り替えたら窓を割ったと叱られた」と話しているのは、プールで溺れそうになったのを良に助けられたルーメイである。
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自分で直接見ていないのに信じ込んでしまう。他人の言ったことを鵜呑みにしてしまう。
これではティエンルンと同じじゃないか。
ティエンルンは、そういう、表面しか見ない人だったのだろうと気づいたのに、実は観ている自分がそうだった。ティエンルンを非難している自分自身が、その彼となんら変わりがなかった。
これはまずいだろう、気をつけなきゃ。
フィクションと現実の境界が曖昧になり、ネットやAIなどの危険性が深刻化する現代。実生活においてそれは重要なことだろうと思った。
——とは言え、これは映画である
映っていなくても具体的に描かれていなくても、その向こう側を想像させるのが映画というものである。それが映画の楽しみでもあり、そこから生まれる想像が作品を深くもする。
なんでもかんでもわかりやすく説明してしまったら映画ではない、とさえ言える。
あの強烈に意味深な2つの場面から、ルーメイへの復讐心を想像するのは無理からぬことで、多くの人がそう想起したから「生き残ったのはルオラン」説が根強いのだろう。
だから、それをいけないとは言い切れないのだ。
では、現実だとダメでもフィクションならいいのか?
この相反する2つの事態には、いったいどうやって折り合いをつけたらいいのだろう。うまい答えを見つけ出せないでいる。
映画の作法を現実に結びつけすぎているのかもしれない。
もっと勉強しなくちゃならない。
春馬くんからまたひとつ、むずかしい課題を出されたようだ。
ルオランのホントに本当の気持ち
「ルーメイになる決意をしたルオランはティエンルンにもらった服で良に会い、心の中で別れを告げた」
ルオランのこの気持ちは、別の言い方を含めて何度も書いてきた。根底にはこれがあると疑わなかった。
だがそうではなかったと今は思う。だから、それらを次のように言い換えることにしよう。
「ルオランは、ルーメイになりたいなどと一度も思わなかった」
いや、少しは考えたかもしれない。これならいけるかも、とそんな考えがちらっと頭をもたげる瞬間はきっとあっただろう。
だがルオランはすぐにそれを打ち消した。そんな考えはダメ、と。
ルオランの生き方に偽りなど微塵もなかった。
生き残ったのがどちらであるかを判断できる証拠が見当たらないと気づいていながら、なんの証拠もないのに、ルオランはルーメイになり代わりたい、それは計画的でさえあったとまで決めつけていた。それは人の存在価値をも左右するほどの誤った判断だったのではないか。
映画の中のこととは言え、ルオランにはとても申し訳ないことをしたと思っている。謝りたい。
それにしても、もしもこの解釈がつくり手側の考えと合致しているならば、まんまと引っかかったということになる。
「この話は簡単に言うと、ごく普通の青年が双子と出会い、1人がある事故が起きた、というだけなのに、そこに愛憎劇が生まれてしまう、その人間の愚かさを描くことを目指しました」
(2014.10.4 第19回釜山国際映画祭ティーチイン行定勲監督の言葉より。出典:「真夜中の五分前」公式サイト。原文ママ)
うむむ、お見通しか…
お帰り…
生き残ったのはルーメイ。ルオランは嫉妬はしていたが妹の人生を乗っ取りたいなどと思ってはいなかった。そして、今を生きたいというルオランの最後の気持ちを、5分遅れではない腕時計を届けることでルーメイが良に伝えた。
これが紆余曲折の末、最後の最後にやっとたどり着いた自分なりの結論である。
そして、ここでいちばん大切なのは良の気持ちであって、目の前にいる彼女がどちらであったとしても良はそのままをまるごと受け入れるのだから、どちらなのかが問題なのではない、とも思っている。
だがそうは言っても、良は心の中でいったいどっちだと思っているのかと考え出すと、またもや気持ちがグルグルと彷徨いだしてしまう。
「僕自身があの状況なら、心のどこかでリョウと一緒で、もともと愛してた女性の影を追ってしまうと思うし、少しでもその可能性が提示されたら、好きだった彼女の方の可能性を高めていってしまうと思います。リョウにとって残酷な設定を監督は僕に提示してきたな(笑)と思いました」
(2014.10.2 第19回釜山国際映画祭オープニング 三浦春馬コメントより。出典:「真夜中の五分前」公式サイト。原文ママ)
こう語っている春馬くん。…深い…
小説『真夜中の五分前』(本多孝好著)では、自分がだれなのかわからないからあなたが私に名前をつけて、と迫る彼女に、僕は「おやすみ、ゆかりさん」と声をかけて部屋を出る。
彼は、大きな覚悟で目の前に立つ彼女を受け入れなかった。左手の指輪さえなければまるでかすみだ、という思いを持ちながらも。
僕はかすみを愛していた——
けれど、そっくりであっても彼女をかすみさんだとは思わなかったし、だれなのかわからないと言うゆかりさんをその悩みから救うこともなかった。
だけど良は、良ならば、騙された裏切られたともしわかったとしてもルオランを受け入れるし、目の前で苦悩する女性がルーメイであったとしても受け入れると私は思ったのだ。
良はそういう人にちがいない、きっとそう考えるにちがいないと。
春馬くんの演じた良が、そういう気持ちにさせたのだと思う。
だから最後は、やっぱり良を信じることにしよう。
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目の前にいる彼女をどちらだと思うのか、良の気持ちはわからない。
でもそれでいい。
上海の裏街で今も時計の修理をする良が白衣姿でこちらを振り向き、小さくコクンとうなづく。
私には今、はっきりとそれが見えた。
〈つづく〉