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名優たちと”音”が淡々と描く戦争の理不尽さと虚しさ 『太陽の子』

2021年8月6日。

私は4月の段階で、早々にこの日の休暇を申請した。そして、映画『太陽の子』の公開を映画館で迎えようと、待ち構えていた。昨年放送されたドラマの事もあり、日本の原爆開発が物語に関わると知っていた。事前に少しでも知識を入れておこうと読んだのが、『日本原爆開発秘録』 保阪正康著 (新潮文庫)である。

本に書かれていたのは、日本の原爆開発にまつわる軍部と原子物理学研究者の関係や、アメリカのマンハッタン計画(原爆開発)に関する話などである。私は日本のちまちましてまとまりがない原爆開発と、マンハッタン計画の規模の大きさの違いに驚愕し、読み進めるのがつらくなって途中で本を閉じてしまった。

マンハッタン計画に投じられた予算は、当時の金額で1945年10月までに18億4500万ドル。現在の貨幣価値に換算するとおよそ230億ドルだという。広大な土地を買い、ウラン精製工場を建設し、労働者を大勢集めた。ウラン鉱山で働く人や工場労働者を含めると、開発にかかわった人員は75,000人にも及んだそうだ。アメリカの優秀な頭脳だけではなく、カナダからも優秀な人材がかの地に集められたという。

おまけに、日本には肝心のウラン鉱石が無かった。アメリカには、南西部に大規模なウラン鉱山がある。

対米原爆開発競争は、もう最初から勝ち目のない戦いだったのだ。
原爆開発にかけられる人・モノ・カネ。開発プロジェクトを進めるのに必要なリソースの全てで、日本は大きく劣っていたことになる。映画をご覧になった方ならお判りいただけるだろう。修が京都帝国大学でやっていた研究との差は歴然だ。到底追い付けるものではなかったのである。

修(柳楽優弥さん)が籍を置いていた京都帝国大学荒勝研究室の荒勝文策教授は、「マンハッタン計画」についてどこまで知っていたのだろうか。ぼんやりと考えているうちに、8月6日を迎えた。私は映画館へと向かった。

映画『太陽の子』の簡単な人物相関図を貼っておく。

太陽の子

戦況の悪化と修の研究

焼きもの窯の奥に、燃えさかる火が見える。聞こえてくるのは上空を敵機が飛ぶ音だろうか。窯の中には、無数の骨壺が並んでいるのが見える。

「こんにちは」と窯に薪をくべる陶器屋の親父さん(イッセー尾形さん)に声をかける、修(柳楽優弥さん)。親父さんが首を振って示した先には、黄色の粉末が詰まった瓶があった。硝酸ウランだ。後で分かることだが、焼きものに色を付けるには、重金属が欠かせないらしい。陶器屋の主人は、焼きものの釉薬として、硝酸ウランを使用していたのだ。

修は、大学で行っている原爆開発のために必要な硝酸ウランを、分けてもらいに来たのである。1944年9月。ちょうど、サイパンが陥落して米軍に占領され、本土への爆撃が激しくなっていたころだ。日本が敗色濃厚となってきて、軍が起死回生の新型爆弾の開発を焦っていたころでもある。

10キロの硝酸ウランを背負って研究室に帰ってきた修は、どこか得意げだ。これで実験が続けられると喜ぶ研究室のメンバーは、若いエネルギーにあふれているように見えた。

研究そのものの魅力に憑りつかれている修、社会的意義にやりがいを感じている者、徴兵から逃れていることに対する罪悪感を感じる者・・・研究に没頭する学生たちの胸には、さまざまな思いが渦巻いていた。

荒勝教授(國村隼さん)のもとでは原爆の開発のため、ウラン235を抽出して濃縮する実験が、日夜行われていた。戦局が厳しくなり、電力供給が途絶えがちになったり、実験がなかなか上手くいかなかったりする中、修は幼馴染の世津(有村架純さん)と世津の祖父・清三(山本晋也さん)を実家の離れに連れていくため、建物疎開で取り壊される世津と清三の家に向かう。

世津と修の背負わされたもの

世津の家族は、足が不自由で言葉も出にくくなっている祖父・清三だけだ。父も母もいない。戦時中は、こういう家族がたくさんいたのではないだろうか。疎開しようにも、自分だけならまだしも、祖父を連れてはきつい。「ホンマにありがたかったんよ」というのは、掛け値なしに世津の本音だろう。戦争は、若い女性にずいぶんな重荷を背負わせる。

修は、そんな世津に「遠慮せんでいいんや。昔みたいに」と伝える。そうやね、と応じる世津。話題が弟・裕之(三浦春馬さん)のことに及ぶと、修はわずかに複雑な表情を浮かべる。

風呂の壁越しに世津と修が言葉を交わす。「昔みたいに」とはいかない二人の間の壁は、風呂の壁よりずっと厚い。世津には、修の抱く裕之への複雑な思いも、見えないままだ。

裕之の苦悩

父の言葉通り軍人となった裕之が、体調を崩して束の間帰郷したのは、世津たちが疎開してからおよそ1年後のことだった。

「ただいま」と笑顔で言う裕之。慌てて近づこうとして躓く母フミ(田中裕子さん)を、支える手に何を感じただろう。「痩せたな」という母に、改めて裕之は「大丈夫や」と微笑みかける。もしかして、母ではなく裕之こそ、支えた腕の感触に、「母さん、痩せたな」と思ったのではないだろうか。だからこその、言葉かけと笑顔だったのではないか。慌てて躓いた母と支えた母の腕の感触に、思った以上の肉体的な衰えを感じたのだろう。

とにかく母を安心させてやりたい。躓きを支えた一瞬で裕之はきっと、その思いを強くしたに違いない。三浦春馬さん演じる裕之の笑顔に、胸が締め付けられる。

裕之の胸にあった思いは、複雑だった。

父の言葉に従って軍人になったものの、健康を害して帰郷したこと。そんな中でも、部隊で一緒になった仲間は、次々に命を落としていくこと。戦況が厳しくなっていく中、生き長らえている自分。裕之は、母には見せられなかった複雑な胸の内を、兄の修と幼馴染の世津と向かった海で爆発させる。

「怖い、怖いよう。俺だけ死なんわけにいかん」

つかの間の息抜きが楽しくて、生きている喜びを強く感じた。だからこそ、現実に引き戻された時、仲間が命を落とすなか生きながらえている自分の後ろめたさと恐怖が、最高潮に達したのだろう。入水自殺を試みる弟を必死で引き留める修。無言だ。かける言葉は見つからない。

世津は二人を抱きしめ、凛とした声で言い放つ。「戦争なんか早う終わればいい。どっちが勝っても構わん!」。大きな声では言えなかった本音が、砂浜に零れ落ちる。

裕之は部隊に戻ることを決意し、修と縁側で酒を酌み交わす。蛙の鳴き声と虫の声が、京都の片田舎の変わらぬ日常を物語る。後からやってきた世津は、未来への希望を語る。結婚するより、戦争が終わったらやらなくてはいけないことがあると言う。教師になりたいのだと。

世津は、生き抜いて、未来を創っていくことを考えていた。修も裕之も、時代に翻弄され、破壊にばかり目が行っている状況なのに、だ。何たる強靭さだろうか。

世津が、有村架純さんで良かった。柔らかな雰囲気で相手を癒す存在でありながら、内側にとんでもない強さも持ち合わせている。自身が戦争をしなやかに、たくましくくぐり抜けるだけではなく、周囲も勇気づけようとする世津は、有村架純さんが体現することで、目の前にリアリティをもって現れる。

母の思い

部隊に戻るという裕之が出立する日。羽釜でご飯を炊く母・フミ。台所でなかなか握りにくい大きさの、超巨大なおにぎりを作る。見たところソフトボールぐらいの大きさがありそうだ。

米は手に入りにくかった時代のはずだ。現にこの作品の中でも、教授の研究室への差し入れは鍋に入ったすいとんだったし、石村家の普段の食事は「お芋さんふかしたの」や「馬鈴薯」だ。

お米が登場したのは、陶器屋を修が何度目かに訪問したとき、骨壺の横に置かれていた枕飯だけだ。現世最後の食事に込められた陶器屋の主人の思いは、きっとフミがおにぎりに込めた思いと同じだ。

こんなことしかしてやれないけど、どうかお腹いっぱい旨いものを食べてほしい。

おにぎりを裕之に手渡す、フミの表情が忘れられない。命懸けの働きをこれからしに行くという息子に、してやれるのはおにぎりを作って渡すことだけか、という無力感とむなしさが漂う。せめて抱きしめておこうと、顔と手を上げてみたものの、思いとどまり、左手で耳を触る。まるで、そこに確かに裕之が生きている、という感触を確かめるように。そして、左手を大事そうに胸に抱きかかえる。

私は、「フミはなぜ、裕之を抱きしめなかったのだろう」と思っていた。

裕之の顔を、目に焼き付けておきたかったのではないだろうか。自分が抱きしめたら、背の高い裕之の顔は見えなくなる。せめて、生きて会えるのが最後になるかもしれないこの瞬間の裕之の表情とぬくもりを、自分に閉じ込めておきたくなったのではないだろうか。そんな気がしてならない。

1945年8月6日 そして修は広島へ

米軍が広島に原爆を投下したという情報は、京都帝国大学の荒勝研究室にも入ってきた。原爆の開発競争に負けたことを悟った研究室のメンバーは、失意の底に落ちる。

調査のため、トラックに揺られて広島入りした修たち。広島についてトラックの幌を開けた瞬間の、修の雄弁な沈黙が強烈に脳裏に残っている。

そこに広がっていたのは、死の世界だった。がれきの山。鳥のさえずりも虫の声も聞こえない。夏だというのに木々には葉の一枚も残っていない。

修は、かつて肉親だっただろう黒こげの物体の横で震える子どもを見つけて、抱き上げる。

科学者として誰にも負けたくないと研究に没頭してきた修が、アメリカに先を越されてショックを受けなかったはずはない。だがそれよりもずっと強い衝撃を受けたのは、自分が追い求めてきたものの正体ではなかったか。幌を開けた瞬間の、修の長い沈黙をまた思い出す。あまりに驚くと、人の表情は変わらないものなのかもしれないと、改めて思う。

比叡山で修が感じたもの

広島から修が戻った日は、弟・裕之の戦死の知らせが届いた日でもあった。京都の自宅の周辺では蝉の声が聞こえていた。修の過ごす日常は変わらない。だが広島は違う。裕之のいた戦場も違う。裕之の思いが詰まった手紙を読んだ修は、ある決意を固める。

当時、広島・長崎の後は京都へ原爆が投下されるのではないかと言われていた。それなら比叡山に観測機器を設置して、科学者としてそれを見届けたいというのである。もし原爆が京都に投下されたら、生きては戻れない。

比叡山に登るその日、靴下を重ねて静かに出ていこうとする修は、玄関に水筒とおにぎりが置かれていることに気づく。

山に登り、空を眺める修。空が高くなっていることに気づいただろうか。観測機器を設置して確認した後、包みを開いて巨大なおにぎりを頬張る。巨大おにぎりの再登場に、観ている私は母の思いをまた感じて、苦しくなる。

山には秋の訪れが感じられた。朝の鳥のさえずりと、秋の虫の声。ツクツクボウシも鳴いている。おにぎりを頬張りながら修は、何を思っただろう。もう夏が終わるな、米のメシやっぱうまいなと感じていたら、広島で見たあの光景が、頭によみがえってきたのではないだろうか。修の頬を涙が伝う。

旨い米のメシと、目の前で移りゆく美しい季節が、一瞬であの広島で見た光景になってしまう恐怖に駆られたのか、食べかけのおにぎりを置いて、修は山を駆け下り始めた。とにかく急いで下りている途中で世津と会う。泣きながらホッとする世津と抱き合う修。生きて科学者としてすべきことがある、と考え直した修は、広島に向かい、教授の情報収集活動に合流した。

比叡山に登り始めるところから、駆け下りて世津と抱き合うまで、修のセリフはほぼない。だから、この場面の修の心情はあくまで私の想像だ。まったく違う見方をした方もおられるかもしれない。でもそれで良いのではないかと思うのだ。とにかく、修の心の動きはどうあれ、生きて科学者としての人生を全うする道を選んだということなのだから。

映画を観おわって:初日舞台あいさつ

実は、6日の数日前にTwitterでつながっていた春馬さんのファンの方からお誘いがあった。舞台挨拶に行きませんか、と。

私は喜んで行かせてもらうことにした。その時点では一度もリアルにお会いしたことはなかったのに、本当にありがたかった。おかげで黒崎監督と柳楽優弥さんの口から、撮影のお話しや春馬さんとの思い出を聞くことが出来た。

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貴重な体験ができたのも、春馬さんがいてくれて、作品を残してくれたからこそだ。作品が無ければ、春馬さんを通じて誰かとつながれはしなかっただろうし、つながった方とのリアルなご縁も生まれることは無かった。

本当に、どれだけ感謝しても感謝し切れるものではない。

私に声をかけてくださった方にも、ご縁をいただけたことにも、この場を借りて心からのありがとうを贈りたい。

終わりに

柳楽優弥さんはじめ、有村架純さん、三浦春馬さん、田中裕子さん、國村隼さん、イッセー尾形さん。いずれ劣らぬ名優たちが淡々と綴る物語の中には、「それぞれの立場で見た戦争」が描かれている。

有村架純さんや三浦春馬さんは、当時の一般的な若者の立場で。柳楽優弥さんと國村隼さんは、軍に研究を利用された科学者の立場で。イッセー尾形さんと田中裕子さんは、家族を失った者の立場で。どの立場からみても、戦争とはなんと虚しく理不尽なのだろうと、改めて感じてしまう。

出演なさった役者さん全員が「名演」と言えるお芝居を披露してくださっているのだが、特筆すべきは、やはり柳楽優弥さんだろう。修のセリフは、決して多くはない。しかし、弟に対する複雑な思いを胸に、科学に憑りつかれ好きな研究に没頭していく修と、彼の胸の中にあるものを、鮮烈に私に届けてくれた。

広島に原爆が投下されてから76年が経過した。こういう形で、戦争のことを改めて考える機会をいただけたことに感謝したい。

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はるまふじ
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