自分の目でみる
いつか私も行きたいな。
そう思ったのはもう6年も前の事だった。
webライターの塩谷舞さんが実施した
#BuzzCamp
その記事を見て衝撃を受けた。
東日本大震災で大きな被害を受けた南三陸町にある、南三陸ホテル觀洋にバズライターを多数引き連れて行き、そこでバズについての講義を行うとともに、東北の幸を堪能し、自然を感じ、震災について考えるという企画である。
ただ単にバズるためにはこうしろ!と言う講義ではなく、すでにある程度のバズを作れる人たちが、バズった後どうするか、こうバズらせるためにはどうするのかという講義であり、ネットに溢れている承認欲求を満たすためにはこうしろという安っぽいものではない。
そして、参加したのは都会からきたライターだけではなく、ホテル観洋の支配人に営業部長など、これからの南三陸町を支える人たちも一緒になって聞いたという。
毎週末のようにイベントが行われる東京と異なり、普段は接する機会のないようなネット関係のイベントに、南三陸の人が南三陸のためにと勉強をする機会までも作り上げるなんて、一石二鳥も三鳥もある企画じゃないか!と驚いた。
私の説明ではどうすごいのか、3mmくらいしか伝わらないので、ぜひ記事を読んでいただきたい
私もいつか、このホテルに泊まりに行って、たくさんお土産を買い込んで被災地にお金を落とすことくらいしかできないけれど、被災地を応援したいなと感じ、心の中のいつかやりたい事リストに加えた。
そして月日は流れ、いつかいつか…と思っていた日が来た。
車を運転できないから、一緒に被災地で当時の話を聞こうと誘える友人がいなかったから、仕事が忙しかったからなど、言い出せばキリがないほどいいわけっは出てくる。
ある日ふと、そういえば最近運転しているし、今ならレンタカーを借りて遠出ができるんじゃなかろうか。と思い、どこに行こうか探し出したところ、心の中の東北という選択肢がむくむくと主張してきた。
今の時期なら雪もないし、旅行シーズンでもないから混んでないだろうし私の運転でもいけるんではないだろうか。
そう思ってからは早かった。
すぐに予約し、2週間後には東北にいた。
人口1万人強の町にある南三陸ホテル観洋。
正直寂れたビジネスホテルの広い版くらいにしか期待していなかった(失礼)
ホテル正面にはドアマンが待ち構えているし、少し離れた駐車場(と言ってもホテルの斜め前)からは送迎バスもある。
ロビーに入った瞬間視界からはみ出る東北の青い海。
素敵すぎでは…?
この時点ですでにテンションは最高潮である。
部屋は全部屋オーシャンビュー。
目の前には海しか広がっていないので、カーテンなんて必要ない。
すぐに温泉に入りに行くと、まだ少し肌寒い気温にあわせてか、熱々のお湯に、最高の景色。
晩御飯も海の幸に山の幸がこれでもか!というくらい使われており、大満足を超えてもう1つか2つ胃が欲しくなったものである。
ほくほくに心が満たされて、その日は床についた。
次の日、私が一番メインにしていた語り部バスに参加した。
3.11当時、ホテルで被災された従業員のかたがバスの窓から見える景色について説明をしてくれるツアーである。
(余談だが、60分コースではバスから降りる事なく説明を受けることができたので、足の悪い母も一緒に参加することができ、大変助かった)
ここには小学校があった、ここまで水が来た。
ここには役場があった。ここでは何人が亡くなった。
ニュースで多くの方が津波の犠牲になったことは知っていた。しかし、現地で、目の前に広がる今は更地となったこの場所で、あの日そんな惨劇が起こっていたなんて。
心臓が速くなった。
淡々と話す語り部さんは、それを現実として受け入れるのにどれだけ苦しい日々を送ったのか。
その後バスはホテルに戻り、お見送りに出ていたホテルの方々にお礼を伝え、南三陸さんさん商店街へ行った。
商店街は、震災前よりも10メートル地面をかさ上げした上に建てられ、商店街の一番奥には目を引くデザインの南三陸311メモリアルがある。
デザインは建築に明るくない私でも名前を知っている隈研吾氏がされたそうだ。
そういったところも、つながりだなぁ。
展示物を一つ一つ見ていく。
南三陸町の地図が津波で真っ赤に染まっていく様子を再現した動画や、浅田家で有名な浅田政志さんが撮った南三陸の人々の写真、震災前の南三陸町の写真に、
震災前の町の模型。
模型には一軒一軒にコメントがあり、「◯◯さん家」「××さん」「ここでお祭りの神輿を担いだ」など、みんなの記憶が記されていると同時に、「ここまで水が来た」「この上に△△さんの家が乗った」など、当時の痛ましい記録も記されていた。
屋上からは南三陸町を海の方向に見渡すことができ、その光景をみてあぜんとした。
朝から語り部の話を聞いて、当時何があったか理解したつもりだった。大繁盛のホテルも、新しくできた綺麗な施設もみて、復興したんだなと思っていた。
でも、ちがった。
見渡した南三陸町は、かつて町の中心として栄えていた住宅地には、更地が広がっていた。
あぁ。私は何を見ていたのだろう。
復興なんてまったく終わった話じゃないじゃないか。
震災から13年が経った。
でも災害対策庁舎の今後はまだ決まっていない。後7年しかない。
かつての住宅地は更地として整地され、そのままとなっている。
いくつかの家は山の上に新たに土地を購入して引っ越したとも聞いた。
購入できない人は、被災住宅か他所へ引っ越して行った。
今なお元の生活に戻れていない人たちがいる。
バラバラになってしまっている。
それを知らずに、被災地に行ってお金を使うことだけが支援だなんて。
胸が締め付けられる。
災害対策庁舎の屋上で無事生き延びた10人の職員。その人たちの証言から、当時庁舎で何が起こったかが明らかになった。
それをまとめた河北新報の新聞記事全文が壁に掲載されている。
きっとまとめた記者の方も、相当な苦労と苦しみがあっただろう。
1分単位で記録される切迫した状況。
誰々が流されるのを見た。
年齢が書かれている人とと、書かれていない人の違いの意味。
震災の夜、氷点下まで落ち込んだ気温の中で、生存者同士遠くの建物へ声掛けを行っての夜通しの励まし合い。
生き残ってからも職員を襲う怒号と責任問題。
その現場が私の目の前にある。
災害対策庁舎は現在宮城県が災害遺構として20年間管理をしている。
近くまで行ってみると、この建物を飲み込むほどの津波なんて想像もつかない。
多くの人をすくった屋上の階段だけがなんとか形を保っており、それ以外の階段や柱は見るも無惨にひしゃげている。
天井からぶら下がる電灯に引っかかっているだけの配管に、どこかから流されてきたであろう部品。
近くには丘が作られており、その高さは南三陸町を襲った津波の最大の高さ(約15m)の高さとなっている。
登って上から辺りを見渡すと、ほとんどの場所が丘よりも低いことがわかる。
いや、向こうが低いんじゃなくて、こちらが高いのだけれど。
感情がぐちゃぐちゃである。
泣くとかそういうことではないが、自分の中で整理がつかなくて、母にめちゃくちゃに当たってしまった。
ごめん、母。
帰りの道中で考えた。私に今できることってなんだろう。
自己満足ではなく、本当に被災者のみなさんが求めていることってなんだろう。
私1人でもできることってなんだろう。
わからない。
わからないんです。
それでも、また来ようと思った。来ることで得られたことが沢山あったから。
次に来る時は、違う家族も誘おう。
未だに何が正解かは分からない。
でもきっと、考え続けることが大切な気がする。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?