自問自答
2022.8.15 Mon
束の間の夏休みも今日で終わり。
「また明日から働かないといけないのか」
そんなことを感じてしまい、テンションが下がってしまう自分が存在していることを否定できない。素直に認めなくてはならない。
では、なぜそう感じてしまうのか。
それはきっと「やらされている仕事」をしているから。
そして、なんのために働くのか、なんのために自分に鞭打って働いているのか、希望が見えないから。
それはまるで、出口の見えない暗いトンネルを歩いているような感覚。
生きている理由はなんなのか。生きている理由なんてないのかもしれない。
人生をかけてまで成し遂げたいこともなければ、大きな夢もない。
悪いことではないけれど、それだけ恵まれた環境で過ごしてきたことを表しているといえる。
お金・食事・住むところになに不自由なく生活することができ、友達にも恵まれ、欲しい物も手に入る環境で育ってきた。これは感謝すべきことだ。
その一方で、豊かさ故に手に入らなかったものもたくさんあるだろう。
中でも一番大きいのは、「ハングリー精神に欠けること」だ。
勝敗によって生活の左右するような厳しい環境に身を置いてこなかった。
あるとすれば大学受験くらいか。
かつての自分は、「危機感」を自分で生み出して"いわゆる努力"を重ねてきたと言えるだろう。
受験に落ちて浪人したら人生が終わる。友達や先生、両親など応援してくれる人たちをがっかりさせたくない。知らないうちに自分で自分にプレッシャーをかけて、乗り越えてきた。
でも、その技はもう今の自分には通用しない。
なぜなら、合格することが正解であるとは限らないことを理解してしまったからだ。
人生に失敗も成功もない。受験に受かっても落ちてもそれがその人にとっての正解の道になるだけ。結果がどうであれ、その人の人生は続く。
答えは一つではなく、無数にあることを知ってしまったからこそ、今の自分は「やってやる」という感情や、向上心を失ってしまったんだと思う。
それを人は甘えと呼ぶのだろう。
たしかにその通りだと思う。
お金に困ることもなく、奨学金の返済や借金に追われることもなく、自分のために自由にお金を使えている状況。
明らかに経済格差の恩恵を受けている側の自分。
自分が何か特別なことをしたわけではない。運が良かっただけ。
親や先祖様が頑張ってくれたから、今の自分がある。
このまま、恩恵の上にしがみついていて、なんとなく生きているだけでよいのだろうか。
目標や夢はすぐには決まらないかもしれない。
でも、「自問自答」することは今からでも遅くはない。始めたほうがいいだろう。
自問自答とは、過去やったこと、市場のこと、将来やりたいことを
「本当にそうなのか」「本当にできているのか」と自分に問いかけて、
真剣になって考えること。
かつての自分がやっていたこともこの自問自答だと、振り返れば思う。
今の自分は、自分自身との対話が極端に少なく、本能のままに生きているように感じる。自分の気分で物事を実行し、気分が乗らなくなると放棄したり、逃げたりしている。
もっと、自分自身に問いかけないといけない。
「これでいいのか。」「なぜなのか。」
「これが本当に最善策なのか」
クリティカル・シンキングをしようといわれるけど、その原点はきっと、自分自身に問うことだろう。
自問自答の手段として、クリシンやMECEという考え方があるだけで、全ては自問自答から始まる。
日常的に自問自答している人が、きっとどの世界でも生き残る。
常に問い続けろ。
今の自分は、これでいいのか。
そんな危機感が、すべてを動かす原動力になるのだろう。