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怒りの必要性~明王から学んだこと~
2022.2.19 Sut
仏像には、明王や菩薩、如来などたくさんの種類がある。
京都にあるお寺でそんな様々な仏像をみて感じたことがある。
仏像のことは詳しくはわからないので、あくまでもそこに書いてあった資料などを下に、自分の解釈となってしまうので、信ぴょう性があるとは言えない。でも、解釈は自由だと思うので、そんな自分の解釈をここに残しておこうと思う。
どの仏像も、修行を積み、煩悩を追い出そうとしてきた。
だから、仏像に悪はない。
でも、明王などを見ていると、とても怖い表情をしていることが多い。
仏像をさらによく見てみると、明王の足元には鬼らしきものを踏みつけているものが多くあった。
一見すると、明王の方が悪人のように思えるのだが、実際は違うらしい。
明王は本来、菩薩と同じで、普段は穏やかな表情をしているらしい。
でも、鬼という人間の煩悩の象徴であるような悪に対しては、怖いぐらい怒りの表情を顕にして立ち向かうのだ。
なぜなら、鬼に負けること=自分の煩悩に負けることであるから。
自らの煩悩に勝つために必死に修行を積み、菩薩になろうとしている。
だからこそ、そういった鬼と戦うときには怖い表情むき出しにしてでも戦うのだろう。
ここから自分が思ったことは、怒りは必要であるということ。
怒ることは、悪い事ではなく、時として誰でもするべきことであるのだ。
自分にとっての煩悩や悪の心。
それらに負けないために、時として怒りの感情をもって、それらと戦わないといけない。
例えば、アニメドラゴンボールでは、純粋で穏やかな心とともに、怒りの感情を兼ね揃えた時に超サイヤ人という圧倒的な状態に変化をする。
それは、悪役である敵に負けないためだったり、愛する人達を守るため。
自分は怒るという行為に対して、ネガティブにとらえていた。
怒るということは、自分が他人に期待しすぎた結果、自分の理想と実際の行動のギャップが大きい時に発生しやすいような気がしていて、だから怒ることってすごく自己中心的なことだと認識していた。
でもそんなことはないのかもしれない。
もちろん理不尽な怒りは良くないけれど、自分の正義や大切なものを守るために、時として怒りを出さないといけない時がくる。
怒りを出さないといけないと言っている時点で、自分にとって大切なものや人を守れていないのかもしれない。
自分の命をかけてでも、時に恐怖に挑み、その人やそのもの、信念を守れるのか。
怒りは、そんな自分にとっての大切なものを守るための手段であり、最大の武器なのかもしれない。
明王…仏像を分ける時に使う言葉で、如来、菩薩の次の分類名になります。如来が通常の姿ではいうことを聞かない衆生がいたら、屈伏させることを目的に、忿怒の姿に変身したものが明王で、密教の尊像です。仏教に帰依しない民衆を帰依させようとする役割を担う仏尊でもあります。大日如来の命を奉じ、非常に強い力を持ち、悪を打ち砕き仏法を守る存在です。火生三昧という炎の世界に住んでいて、人間界の煩悩や欲望が仏の世界に波及しないよう、聖なる炎で焼き尽くすと言われています。やさしい心だけでは救えない人々のために、不動明王(ふどうみょうおう)をはじめ、その多くが怒(おこ)った表情(ひょうじょう)をしています。
如来…悟りを開いた人のことをさした言葉。人間も悟りを開けば如来になれると信じられているのです。現在で、如来といえばまず「釈迦如来」を思い浮かべる方も多いと思います。悟りを開く直前の修行中の人を「菩薩」と呼び、悟りを完全に開いた人を「如来」と呼びます。如来とは特定の固有名詞のようなイメージがありますがそうではなく、真の悟りを開いた人全般を指します。
「参考文献」
・大人のためのbetterlife マガジン『enpark』
・京都国立博物館 KYOTO NATIONAL MUSEUMhttps://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/choukoku/208.html