『逃飛行 〜ギャップイヤーに思うこと〜』
ギャップイヤーはシャイな奴
ここ2年で大学に行ったのは、恐らく両手、もしくは片手で収まるほどの回数だろう。すでに、大学1・2年生の時は足繁く毎日のように通った学校から、物理的にも精神的にも少しずつ距離が離れていった実感がある。よく、片道2時間もの通学路を通い続けたものだ。授業よりも片道の通学の方が長いなんてこともしばしばあった。それでも先日、無事?卒業認可が実家に届き、僕の卒業が決まった。
今回は、大学生活と共に終わりを迎えようとしている人生のモラトリアム期間を振り返る。一昨年のギャップイヤーから、早2年。何者でもなく、ひたすらに自由でも不自由でもあったこの期間。
僕にとってはどのような期間だったのだろう。こいつもまた、影にひっそりと隠れたがるシャイ野郎なので、正体は不明である。だが、人生の転機になったことは間違いがない。
大学は人生の夏休み?
僕が大学に入学する前、予備校の先生に「大学は人生の夏休みだぞ〜!遊べるぞ〜」という言葉をよくかけられた。ひたすら勉強に追われている僕や友人たちは、「遊び・夏休み」という甘い蜜にメロメロになった。目の前に垂らされた実在するかどうかもわからない蜜に、誘われていた私たちはまぬけなカブトムシだったのかもしれない。
だが、僕としては「大学は人生の夏休み」という言葉には半分賛成で半分反対である。この言葉を鵜呑みにしてしまうことは非常に危険であり、虚しい4年間を過ごしてしまうことにもなりかねない。夏休みのように普段学校では学べないことが学べるといった意味では賛成である一方、本当に遊ぶだけの夏休みにしてしまう可能性もある。
ここでの夏休みとは、基本的に自由で遊べる期間という意味も持つ。実際に、塾の先生が示した「夏休み」とは、いわゆる遊びや娯楽の例とともに示されることが多かった。その言葉を鵜呑みにしてしまうと、まんまと毒入りの甘い蜜に誘われたカブトムシ状態である。
𠮷岡さんという人
先日、途上国の医療を受けられない子どもたちに医療を施す医師、𠮷岡秀人さんの動画を見た。数々の心を動かす言葉がある中でも、僕は次の言葉を心の引き出しにしまった。
心の陰陽
僕には、時間を費やして一つの物事に取り組んだ結果、その物事が自分のしたいことではないと気づいた経験がある。これもある意味、時間を投資したからこそ得られた「あらゆること分の1」なのかもしれない。そして、この経験には一切の後悔がない。
だがその一方で、友人たちと飲んだくれて次の日の朝には後悔が付き纏う、という経験を何度も繰り返したことがある。この経験にはひたすらの後悔が付き纏う。確かに楽しい。一時的には精神が非常に満たされていたからこそ、朝の太陽が僕の心の隅々までクリアーにするまで遊び続けたわけである。
しかし、いざ心の全体像が明らかになった時に、これが僕の求めていた「人生の夏休み」なのだろうかという問いが浮かぶ。だが、悩んでいるうちに日が沈み、暗闇が空を覆う頃には、自分が見たいと思う心の一部分だけが現れ、右手に持ったお酒と共に一夜限りの儚い楽しさを追いかけてしまう。堂々巡りである。時間は限られていることを実感する。
そして、そのことにも自分は気づいているはずである。どのみち、就職活動で自分について問いを立てた時には、心のスコープをぐっと絞ってしまっている自分に気が付かざるを得ない。社会は、残酷な通り道を用意したものだと思った。
ただ、幸か不幸か。その時点で遅かれ早かれ、自分と向き合う旅の入り口は用意されているわけだ。そこで、ほんの少しずつでも心のスコープを開いてあげることができたら、後は何に時間を費やしていくかを考えるだけとなる。些かシンプルでもあり、残酷である。
夏休みの宿題
仮に大学生活が自分の心と向き合って、見つけた何かに向かって時間を費やす期間だとする。だとすると、それじゃあ「人生の夏休み」はするべきこと、宿題で満たされているじゃないかという話になる。それでは毎日のようにワンピースを読んでいるだけの生活が出来ないじゃないか。就職活動期に、この宿題の存在を思い出すようでは、かつて小学生だった頃の自分と同じだ。でも、大学生にはとっておきの必殺技があった。それが僕にとっての「ギャップイヤー」だった。なんてったって、自分で宿題の〆切期間を伸ばせるんだから。
セコく見えるかもしれない。でも、「人生の夏休み」で与えられた宿題は、小学生の頃のように量こなすだけで終わるものではない。どれだけ、自分の中にしまわれたノートの中身を濃くできるかだ。採点だって、自分で行わなくてはいけない。
ここで自分のノートに良い点数をつけてあげるためには、人生の夏休みの中に更に隙間休みを設けてでも、中身を濃くしたい!それが、僕がギャップイヤーを取ろうと思った理由だった。
ギャップイヤーを選択してから、デンマークへと渡航し、街は1週間でロックダウンになり、働いていたバイト先はコロナ禍で潰れ、住んでいた家からは追い出される、、、など色んなことは起きた。でも、人生のモラトリアム期で真っ白どころか透明なパレットしか持っていない、自分が「何者」かすらわかっていない僕にとって、それらは十分すぎるほど彩を与えてくれるスパイスだった。
未知の状況で自分だけを信じてした決断の数々。それが今の自分色を構成している。
大学生活は、人生の夏休みなんて言われるけれども、ただ休み休みしているだけでは心を常に照らしてくれる光は見つからない。だから、塾の先生の言葉は鵜呑みにしてはいけないし、占い師の言葉も信じてはいけない。他には、疲れた時にやってくる優しい男の言葉も、手をV字にして顔に添える女の言葉も。
ギャップイヤーを終えての文章を書こうと思ったはずが、飛んだ寄り道で文章に終わりがきてしまったようだ。書き手の気持ちも人生も不思議なものである。
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