推しの幸せを願えない

時々推しについて話題を書いてるけれど、
推し活をするなかでよく見かける言葉がある。

「推しの幸せが私の幸せ」
「推しが落としたお金で贅沢してくれればいい」
「推しが美味しいもの食べてるのをみるのが最高」
「推しは健康で過ごしてくれ」

必ずしもではないけれど、
なんとなくこの言葉を言えることが
推し活をしている中で正しいあり方とされているように思える

勿論プライベートに介入したり
活動が気に入らないからと文句言ったり
そういった人たちがいる中で
「推しが幸せならいい」
というスタンスは至極素晴らしく真っ当なことにも見える。

ただ自分自身はというと、どうしてもそう思えない。
プライベートに介入したいわけではないし
活動が気に入らなければ離れるだけなのだが、
それとは別の部分で「推しが幸せ」でいることへの抵抗感がある。

昔から悲しい物語が好きだった。
悲しい歌も好きだった。
苦しさとか痛みとか、生きていくうえで
どうしようもない感情を吐露している作品に強く惹かれることが多かった。

勿論創作物は創作物に過ぎない。
アーティストや作者が幸せに暮らすことで、
彼らの彼女たちの作品がまるで変ってしまうとも思えないが、
その可能性は多くある気がしてしまう。
苦しんでいるからこそ、
悲しんでいたからこそ、
生まれたものがあるように思う。

もし彼ら彼女たちが最初から幸せだったら
きっと生まれなかったであろう作品たち。
その作品を好きになってしまった自分からすると
どうしても「幸せでいて」と思えないのだ。

勿論不幸になってほしいと願っているわけではない
出来れば辛い時間はすくなくあってほしい。
ただ彼ら彼女たちの心のなかの葛藤が全部きえさってしまったら
どうなってしまうのだろう、とおもってしまう。

あるアーティストが言っていた言葉が印象的だった。

迷ったらまた会いに来て
きっと自分もこれからもずっと、迷いながら歌っているから。

幸せでいてほしいのに、迷っているこの人が好きなのだと
改めて思った瞬間だった。

結局心から推しの幸せを願うことが出来ない。
自分が幸せになればこの考えもかわるのかな・・・



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yulia
日々を生きていく力にします。本当に、ありがとうございます。