表現の自由サポート vol.2~パブリックフォーラム論
本稿はわたしが【表現の自由】を巡る疑問に応えることを通じ、読者のみなさんと一緒に、自分の考えを深めたり整理したりするサポート役になることを期待したシリーズnoteです。第2回は、「『パブリックフォーラム』とは何か?」という質問に回答します。
一般論として、「人権は時と場所によってその行使が制約される」というルール自体に異論のある方はあまりいないでしょう。しかしそのルールをどうやって決めるのかとなると議論紛糾待ったなし。問題になりえるのは「どんな時、どんな場所で、どんなふうに人権が制約されると考えられるのか?」という懸念においてに他なりません。
こうしたTPOの文脈の中で、しばしば耳にするのが「パブリックフォーラム」という単語です。「パブリックフォーラムでは表現の自由への規制は特に慎重になるべき」という意見が聞かれる一方、「パブリックフォーラムだからこそ表現の自由は一定の規制を受けるべきである」との意見も聞こえてきます。この混乱は一体どのように整理したらよいのでしょうか?
本稿では以下の質問に順次答える形で、パブリックフォーラムと表現の自由の関係を検討していきたいと思います。
1.パブリックフォーラムって「何」?
パブリックフォーラムとは、「原則として自由な表現活動が認められるべき公共の場所」のことを指します(法律学小辞典 第五版、有斐閣)。
そもそもパブリックフォーラムというのは日本語に訳すと「パブリック(公開の)・フォーラム(討論の場)」という意味なので、パブリックフォーラムで表現の自由を規制していては、何のためのパブリックフォーラムなのか意味がわからなくなってしまいます。
パブリックフォーラムについて、差し当たって押さえるべきポイントは以下の2点です。
つまり、可能な限り表現の自由が認められます。どんな表現内容だったとしても、その内容をもって差別的に表現の自由を規制することは認められません。
2.「なぜ」パブリックフォーラムではとりわけ表現の自由が配慮される?
表現を行うためには表現のための場所が必要になります。物理的なスペースが与えられなければ、せっかく認められた表現の自由を行使することができません。
一方で、現代社会ではあらゆる場所が(公的/私的いずれかに属する)「誰か」によって所有され、管理されています。そこには「所有権」なり「管理権」が発生していますので、そうした権利を盾に、管理者が不快な表現がその場所から排除されてしまう恐れがないとは言い切れません。
そこで法学では、自由に表現するスペースを社会的に確保するため、「パブリックフォーラム論」と呼ばれる法理が考案されています。パブリックフォーラムという場においては財産権や管理権といった権利が確かに認められる一方、表現の自由も特に配慮される必要があります。両者の利益を比較衡量しながら、ケースバイケースで表現の自由の制約要否を判断をしていくべきだと考えられています。
ただしパブリックフォーラム論はアメリカで発達した法理で、日本の判例でパブリックフォーラム論を明確に採用したものはまだありません。最高裁判決の補足意見において述べられたに留まっているのが現状です。
3.パブリックフォーラムって「どこ」のこと?
日本の場合、パブリックフォーラムとは一般公衆が自由に出入りできる「公共用物」のことを指すとされています。具体的には公営の道路、公園、広場などの施設設備が該当します。ただし上記の他、私的な所有・管理に服するところであっても「パブリックフォーラムたる性質を帯有するときには、表現の自由の保障を無視することができない」とされています(最高裁判決補足意見・昭和59年12月18日)。
今から約40年ほど前、東京の吉祥寺駅構内で駅員の制止にも関わらず約20分間ビラ配りを止めなかった行為に対し、鉄道営業法35条及び刑法130条が適用され有罪となった事件がありました(吉祥寺駅構内ビラ配り事件)。最高裁は当該行為に表現の自由を認めませんでしたが、その際判事は「鉄道地」のパブリックフォーラム性に関して以下のように述べています(判例同上)。
つまり「パブリックフォーラムはどこなのか。その施設はパブリックフォーラムなのか(YES/NO)」という二元論よりは、「その場所はどの程度パブリックフォーラム性を帯びていると見なされるのか(濃/淡)」と考える方が適切のように思われます。
仮に同じ私鉄駅構内だったとしても、開放性の高い駅前広場はパブリックフォーラム性が強く、閉鎖性の高い構内通路はパブリックフォーラム性が弱いと判断されたのはこのためといえるでしょう。図式化すると以下の図1となります。
4.例外はないの?
パブリックフォーラムといえども例外的な表現の自由規制が認められたケースはあります。その具体例のひとつがヘイトスピーチです。
2016年5月、川崎市に住む男性が「デモ集会のため」などとして、市に対して二つの公園の使用許可を申請しましたが、川崎市は許可しませんでした。男性の所属する団体が過去複数回、在日韓国人に対するヘイトスピーチを行ったと認められたためです。この事例は、自治体がヘイトスピーチを理由に公共施設の集会利用を認めなかった全国の初の事例だったと当時報道されました。
ただし法律上のヘイトスピーチの定義に関しては、日常会話上の運用とはやや異なる線引きがされてることには留意が必要です。法律上の定義によるとヘイトスピーチとは、
とされています。長ったらしいので簡潔にまとめると、「特定の国の出身者であること又はその子孫であることのみを理由に、日本社会から追い出そうとしたり危害を加えようとしたりするなどの一方的な内容の言動」がヘイトスピーチに該当します(法務省紹介による内閣府の定義の一例)。
お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、この定義に準じると、「性別」に基づいたヘイトスピーチは定義上存在しないことになります。
実例を挙げます。先日社民党副党首の大椿ゆう子さんが「ヘイトスピーチの意味を正しく理解せず使っています。まずはコチラで確認を。」というツイートをなさいました。
確かにリンク先には上述の「法務省の紹介する定義」が掲載されていますし、このレスバには有利に働くのかもしれませんが、ヘイトスピーチは一般的に「差別的憎悪言論」と訳されることが多い言葉です。人権擁護派の立場の方が狭義の定義を全面に押し出すような議論態度で大丈夫なのかなと、個人的には疑問を感じた次第でした。
そもそも日本国憲法は法の下の平等を定めているので、(誰が何を基準にどうやって差別言論だと判定するかという問題はありますが)差別表現そのものは表現の自由の保護の範疇外だと考えて差し支えありません。
5.そもそも「パブリック」って何なの?
実は、個人的にはこの質問がいちばん難問だと思っています。
端的な一例を挙げてみましょう。「パブリックスクール」という言葉はアメリカなら「公立校」を意味します。ところがイギリスなら逆に、パブリックスクールは「名門私立校」のことを指します。国益を担うようなエリートを育成するのだという歴史的背景があったためです。
つまり本場の英語圏においても「パブリック」という言葉はそれだけ多義的であるということです。
ちなみに手元の辞書を引くとpublicの意味が6つも列挙されています。
これらの意味を(やや強引にですが)まとめると;
①一般市民全体に関する、
②市民全体に開かれている、
③政府が主体となって行う、
という大体3つの意味合いに集約することができそうです。
しかし①と③は意味合いが逆といえますし(市民主体/政府主体)、政府のことを日本では「お上」と言ったりすることがあるように、「政府が行う公開討論」と聞くとお偉い人が決めたことを粛々と受け入れるような、そんな受け身な政治像が浮かんだりはしないでしょうか。
この他にも、パブリックには「みんなのものであるのか/誰のものでもないのか」という二元論的な切り口もあります。
もし「公共の場」がみんなのものであるなら、その用途やTPOはみんなで話し合って決めなければなりません。誰か一部の人たちが「みんなのもの」の性質を独断的に決めてしまうとしたら、それは越権や傲慢といわざるをえないでしょう。
もし「公共の場」が誰のものでもないなら、そもそもその用途やTPOは誰かによって決められるものではありません。みんなが自由に使う以上の取り決めは原則的にはないと考えられます。
このように多義的で、中には相反するような意味合いを含む「パブリック」という言葉を用いて議論するなら、(こんにちしばしば観測されるように)議論が紛糾するのも無理からぬことのような気がします。
公共の場について議論する場合は、まず「公共」という言葉の定義について認識を共有したり、少なくとも自分はこういう意味で使う、という定義を事前に明らかにすることが求められるのではないでしょうか。
6.補論:大阪駅における「雀魂×咲コラボ広告」はパブリックフォーラム論の範疇に入る?
以上の検討を踏まえ、2022年12月に話題となった大阪駅上の「雀魂×咲コラボ広告」はパブリックフォーラム論の範疇に入るかどうかを検討してみたいと思います。
ただしパブリックフォーラム論の本質は、①表現の自由を担保するためには表現する物理的な場所が必要となること、②表現の受け取り手が盛んに往来する開放的な空間において表現の自由は一層の配慮を受けうること、③私的施設といえどもパブリックフォーラムの範疇に入りうること、の以上3点でした。
パブリックフォーラム論の趣旨を考えると、公共的かつ開放的な空間であればあるほど表現の自由への規制には慎重になるべきだと考えられます。パブリックなスペースは嫌なものを我慢する空間というより、多様な表現や意見に接することを通じ、国民個々人が幸福を追求するための重要な空間であると考える方が適切であるでしょう。
すると表現規制を促したい立場の人々は、自分たちの不快に思う表現が掲示された場所のことをなるべくパブリックフォーラムだと位置づけたくはないと考えられます。スタンスとしては「パブリックフォーラムの範囲をなるべく狭く取ろう」とするのではないでしょうか。
ここで行われることは、もはや「パブリックフォーラム」を巡る陣取りゲームとでも言うべきものです。「あそこはパブリックフォーラムだ」、「いやそこはパブリックフォーラムではない」というように、自分たちの都合がいいようにパブリックフォーラムを線引きしようとします。それはもはや権力闘争の綱引きに他ならないと言えるでしょう。
パブリックフォーラム論の理論的背景は、突き詰めると公共の福祉原理に行き着きます。そしてシリーズ前回のnoteで述べたように、公共の福祉原理の根拠は幸福追求権にありました。
パブリックフォーラムにおける表現の自由規制において考える場合は、そこにどのような人権衝突があるか、人権侵害があるか、それらがなかった場合は誰のどのような利益が尊重されることになるのか。そして人権制約によってどのような幸福が増進し、どのような幸福が後退してしまうと考えられるのか。そうした論点に焦点を当てる俯瞰的な視野も必要とされるように思います。
「雀魂×咲コラボ広告」が掲示されることによって、誰のどんな幸福追求権が妨げられるでしょうか。もし幸福追求権が妨げられるとして、はたしてその人は広告が掲示されないことによって幸福が促進されるのでしょうか。その人が仮に不幸であるなら、他にその人の幸福追求を阻む社会的な何かがあるとは考えられないでしょうか?
その答えは、その人の幸福に対する考え方を聞いてみないことにはわかりません。確かに対話は求めれますが、とにかく話せば何でもいいというものではないでしょう。幸福とは何か。より善く生きることはどういうことか。そういう意見がお互い交わせないことには、こうした問題に落としどころが見つかりそうな予感がありません。(了)