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会社の中の「わたし」ではなく、「わたし」が会社で働いているという感覚を大事にしている。
大人になってから、自己紹介をするたびに違和感を持っていた。
「〇〇会社の〇〇です。」 と言うと「ああ、あの会社の人ね。」と言われる。「わたし」を紹介しているはずなのに、会社の名前や肩書きに引っ張られて、「わたし」がいなくなる感覚があった。
これは、どんな肩書きでも起こる。アスリートの場合「ソフトボール選手の〇〇です」というと、「ソフトボール選手の人」となる。だから、どんな自己紹介をするときも、けっきょく肩書きがブランディングになるのだ。
独自の肩書きがあるとホッとする側面もある。
でも、どこかで肩書きに毒される感覚があるのも事実。その肩書きが取れてしまったら、どんなアイデンティティを持って生きて行けばいいのか、わからなくなってしまう。
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アスリートだったわたしが、会社の役員をしたり、フリーランスとして活動していくなかで大事にしてきた価値観について語りたい。
「なんて紹介したらいい?」と言われた
ソフトボールを18年間続けてきた。友だちや仕事仲間には「ソフトボールをやっている子」と覚えられていた。
フリーランス界隈のなかでは、比較的覚えてもらいやすい。アスリート自体、珍しがられる職種だったので、ありがたさもあった。
困ったのが引退後だった。
ある日、友だちに誘われて行ったローカルのバーに行ったとき、
「はるはるのこと、なんて紹介したらいい?」
と言われた。言葉に詰まった。自分の肩書きを特に決めていなかったからだ。
いつの間にか、肩書き頼りになっていた
18年間ソフトボールを続けてきた。
「ソフトボール選手のわたし」に対して違和感を感じることは、ほとんどなかった。紹介の仕方に迷われたとき、今まで肩書きに頼っていたのかがわかった。
頼っていなければ、「今はフリーランスをやっているよ」と気軽に答えられたかもしれない。言葉に詰まった自分に嫌気がさし、悲しくもなった。
長く名乗ってきた肩書きは、自分の一部になることがある。引退するときにソフトボールの肩書きがなくなることは、自分のアイデンティティをなくなることと同意義だとも思っていた。だから、怖かった。
二度とあんな思いはしたくない
いま、フリーランスとして活動している。現在7年目だ。
英語コーチングスクールの立ち上げメンバーとしてジョインした。現在もフリーランスとして活動をしながら、一番コミット度合いが高い状態で働いている。
でも「〇〇株式会社の本庄です。」という自己紹介はほとんどしない。
あえて「本庄遥です。」と自己紹介をしてから、フリーランスで活動をしていて英語コーチングの〜と話を続けるようにしている。いま働いている会社は大好きだし、これからもずっと働きたいと思っているが、これはわたしのため。
会社が大きくなれば肩書きは大きくなり、社会的な信頼もどんどん増してくる。自分が何者でもないと、肩書きを借りたくなる気持ちが湧くことだってある。
肩書きは怖い。自分がすごいと思い込んでしまうこともあるからだ。今度肩書きがなくなったときに、悲しい思いは二度としたくない。だから、これからどんな職種に就くときも肩書きをつくることはしないだろう。
おまけ:副次的効果について
「わたし」が会社で働いているという感覚を大切にすることは、副次的効果があった。
常に等身大の自分を愛し続けるために生きることができるようになった。
「わたし」は「わたし」のままでいいんだ。そう思えた。
人はすぐ、何者かになっていないと不安になる。受験失敗、失恋、トラウマ、辛いことに身をさらされながら一生懸命生きている。それだけで素晴らしいことなのに、自己実現のためにがんばりすぎてしまう。
「わたし」が何者かなんて気にしなくていい。「わたし」がどこかで働いて社会貢献をしている、「わたし」が誰かのために力になっている。それだけで十分、素晴らしいことではないだろうか。
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