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消費者は消費しているのではなく、消費されている。

大量消費社会がデフォルトとなった今の時代を、
流れに逆らって
逆走するのは難しいとよく感じる。

例えば仕事で、
例えば家庭で、

何を使って何をするにおいても、

それを”使い捨てる”という選択肢が存在していることを、

私たちはすでに頭の中で知っている。


使い捨てのストローにおむつ、
使い捨てファイル、
使い捨てTシャツ、

物が凄まじい速さで回転し消費される前提にある世界で、

自分の時間とエネルギー、そしてお金を費やしてまで
”使い捨てない”ことを選ぶのは、
大きな労力を伴う。


私はエコですから意識してます、
なんて言ったところで、

どうしても都合が悪い場合は、”使い捨て”を選ぶことができる、

その選択肢はすでに、
あなたの頭の中に、私の頭の中に、

確実に存在している。

昔の人たちにはなかった選択肢が。



私たちの頭の中の”使い捨てられる選択肢” が存在するスペースに、

昔の人たちは、
”智慧を使う選択肢” が代わりに入っていたんだと思った。


大量に消費することが前提となった社会は、
そのまま、
大量消費社会と名がつけられる。


消費者、という単語を見ると、
”消費する者” というのが元々の意味合いなのだろうが、

実際に消費されているのは、
私たち自身なのではないかと思う。


大量の情報に晒される。
インターネット上には毎分、毎秒、
新しい記事が投稿され続け、

テンプレートのように並ぶ、
『知らないと損する3つの秘密!』のような
煽りタイトルのまとめ情報が、

今この瞬間も増え続けている。


情報を消費しているのは私たちなのか。

違う、私たちは消費されている側だ。


目を使い、耳を使い、
嘘か誠かもわからないような文字の持つ情報を
自分のシステム内に取り入れて、

頭を疲弊させ、
マインドをいっぱいにして、消費されているのは、
私たちだ。

消費されているのは情報ではない。
私たち自身だ。


流行の洋服も、噂の芸能人も、
メディアで話題のカフェも、
新しいモデルの自家用車も、

彼らが私たちを消費している。


だから私は、言葉を創りたいと思った。

自分が作り出すことで、消費される事実に抗いたいと思った。



大量消費社会という味気ない世界から抜け出して、
ひとりひとりが作り手となったとき、

そこにある豊かさはどんなものだろうか。


音を作れ、言葉を作れ、香りを作れ、
思考を作れ、物を作れ、

私はそんな選択をしながら生きていきたい。







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