455.常識とは偏見?アインシュタインの名言
「常識とは、18 歳までに身につけた偏見のコレクションに過ぎない。」
かの天才物理学者、アルバート・アインシュタインの名言の一つである。
常識、と一言で言っても文字通り人それぞれだ。
正解不正解の話ではない。
良い悪いでもない。
偏見。
言い得て妙である。
常識は季節のように移ろうから、次の常識って次の常識を生きる人が創り上げるよねっていう当たり前の記事を、過去に書いた。
これが常識だ!と思い込んでいる事象が一つや二つ、誰にでもあるかもしれない。
昭和の常識が平成生まれの人に驚かれたように、今も平成の常識は令和じゃ驚かれることだろう。
次の常識を創り上げている人たちがいて、次の当たり前を築いていった。
常識を常識たらしめるものは、一体何なのだろうか。
アンケートを取っているわけでもないのに、世論的にこうだという何となくぼんやりした志向が常識となるのだろうか。
しかしそれも偏見だという。
常識とは何なのだろうか?
それを考えたことはあるだろうか?
上記の記事にも書いているが、僕は言うなれば未来の働き方の常識を創っているようなものである。
次の常識を創り上げるのは、今次の常識を生きている人。
つまり、今はなかなか理解されづらい。
常識が偏見であるとするのなら、確かに常識外の人が世の中変えていくことは道理にかなっている。
アインシュタインも同じように、偏見に塗れて生きてきたのかもしれない。
いつだって世界を動かすのは、異端扱いをされた側の人たちである。
常識とは、偏った見方である。
偏りの見方、言い換えれば多数派の意見。
多数派はどうしてもそちら側に偏る。
そしてあらゆるところに、常識は見え隠れしている。
あなたはどの常識の中に生きているだろうか。
どの常識を突き破ろうとしているだろうか。
偏りに飲み込まれていないだろうか。
次の常識を、反射的に弾いていないだろうか。
今の常識が一生続くと勘違いしていないだろうか。
時には冷静になって、常識外に目を向けてみるのも良いかもしれない。