光と闇の夜想曲
暗闇の奥で何かの影が揺らいだ。小さな水音が静寂に響き、べたつく生ぬるい風が頬を撫でながら通り過ぎていった。
「もう二度と来ないでと言わなかったかしら?」
私が闇に向かって冷たく言うと、低く汚いがらがら声が返ってきた。
「今日はミキから僕に話しかけてくれた。嬉しいよ。最初の頃なんて、僕がどんなに話しかけても聞こえないふりばかりしていたくせに。ちょっとは僕に慣れてくれた?」
一方的にまくし立てるがらがら声はとても嬉しそうだった。
「勘違いしないで。約束したはずよ。あなたの世界はこの境界線からあちら側。私の世界へは二度と入ってこないと。」
私は声を荒げて言った。
「約束は守ってるじゃないか。境界線は越えてない。でも・・・、」
濡れた何かを引きずるような気持ちの悪い足音とがらがら声がこちらへ近づいてくるのが分かった。
「やめて。来ないでって言ってるでしょう?」
私は叫ぶように言って後退った。威厳のある姿を見せていなければならないのに、あいつが近づくにつれて、胸を締め付けるような気持ち悪さと恐怖が体の中から湧き上がってきて、呼吸が乱れてしまう。
「でも、僕はキミの姿を見たいんだよ。ミキ。」
暗闇から姿を現したあいつは、全身が黒に近い深い緑と汚い黄色のまだら模様で、横に大きな体とぎょろりと飛び出した目をしていて、私と目が合った途端、唇をゆがめてにやりと笑った。あいつの視線を浴びた途端、まるで冷水を浴びたように全身から嫌な汗が流れ出して動けなくなった。寒気がする。吐きそうなくらい気持ち悪い。
「ねぇ、ミキ。君は優しい。そうだろう?君ほどの力があれば、僕たちの世界くらい、容易に滅ぼしてしまえるのに、簡単な境界線を引いて、効力の弱い掟でしか僕たちを縛らない。ミキ。君も本当は僕たちを求めてるんじゃないか?なぁ?」
あいつのがらがら声は私の脳に染み込むように直接響いてきて、私はだんだんと洗脳され、あいつの言う通りなのかもしれないと思い始めていった。その時、体の表面がダイヤモンドとエメラルドでできた大蛇が私の後ろからあいつに向かって飛び出した。それは私とあいつの間に割って入って、あいつを威嚇するように鎌首をもたげている。
「あいつの言葉など聞かなくて良い。」
蛇は美しくよく響くテノールで私に言った。
「ヤト・・・。」
蛇の名前を呼ぶと、私の中でざわざわしていた気持ちが、波が引くようにすっと静まっていくのが分かった。
「お前・・・。」
あいつが怯えたようにたじろいだ。
「闇があるから光がある。お前たちがいるから私たちがいる。だから私はお前たちを殺さない。でも、光と闇は決して交わらない。身分をわきまえて恥を知りなさい。」
私が気持ちを取り戻して、強い口調で冷たく言い放った。ヤトは鋭い目であいつを睨みつけていた。
「ミキ。ねぇ、毎日少しで良いんだ。僕は君が好きなんだよ。君と仲良くなりたいだけなんだ。」
あいつは地面に額をこすり付けるように座りこみながら、絞り出したしゃがれ声で、なおも訴えかけたけれど、私の頭にはもうその声は届かなかった。
「ヤト、行こう。」
私が声をかけて立ち去ろうとすると、ヤトは私に寄り添うようにして私を見上げた。
「あいつを哀れだと思うか?」
赤い舌をちろりと出して聞いたヤトに、
「別に。」
と、私は答えた。ヤトの緑色の目の奥が一瞬揺らいだ気がした。
「大丈夫。心配しなくたって、俺は死ぬまでずっとミキの側にいてやるさ。」
ヤトが視線を逸らして言った。
「何よそれ。脈絡がないわね。」
私はヤトの優しさを感じながら少し笑って言った。ヤトが居てくれるからこそ、私は孤独な責務の中でさえ、強く在れるのだと知っていた。