2024/10/23「ごちそうさま」
昨日はついエッセイの更新をさぼってしまった。それはさておき今日のテーマは「ごちそうさま」だ。
多くの場合、「ごちそうさま」という挨拶は「いただきます」とセットで語られがちだ。
命をいただくことへの感謝、などと道徳の授業のような浅薄な議論を重ねるつもりはないが、「いただきます」と「ごちそうさま」には魔力があるように思う。なぜ人は「いただきます」「ごちそうさま」と言うのだろう。外国語でどのくらい対応する言葉があるのかは知らないが、日本特有の文化などと持ち上げたがる人もいるのかもしれない。(どうやら実際のところ、英語には両者に厳密な意味で対応する言葉はないらしい。異なる言語間における意味の厳密な対応、などというものが本当に存在するかはさておき。)
僕は割と、どこでも「いただきます」「ごちそうさま」を言うタイプの人間だ。外食時や誰かとの食事の際はもちろん、家でも気付くと言っている気がする。なんとなく、言わないとすっきりしないのだ。たまに言い忘れて食べ始めたりするのだが、その時も気づいた時点で改めて手を合わせている。「ごちそうさま」についても同様だ。言わないと食事が終わった気がしないというか、どことなくすっきりしない。
「いただきます」と「ごちそうさま」というのはそれぞれ、ある種の儀式を始める合図と終わる合図なのだと思う。食事というのはかなり儀式的な行為なのだ。もちろん動物も食事をとるが、おそらくは空腹を満たすための本能的な栄養補給なのだろう。
食事に意味を持たせるということ。誰かとコミュニケーションをとったり、一日の労を労ったり、テレビや新聞で情報収集をしたり、母国や異国の文化に触れたり。人間にとって食事というのは、単に空腹を満たすだけの行為ではないのだと思う。そこには、いわば儀式的な意味が内在している。
「いただきます」と「ごちそうさま」は、食事という儀式を始め、終わる合図なのだ。始めの合図を出さずに儀式を始めることなど許されない。手順にのっとらずに儀式を始めることほど危険なことはない。同様に、明確な合図なく儀式を終わりにすることなどできない。ひとりかくれんぼやこっくりさんと同じだ。
もちろん「いただきます」と「ごちそうさま」は作り手に対する言葉でもあるのだろう。だが、我々は(少なくとも僕は)自分で作った料理を食べる時にも言うし、作り手が目の前にいなくても言う。それはつまり、単なる対人コミュニケーションやマナー以上の意味合いをこの言葉に持たせているということに他ならない。
こうした考え方は、「生命を」いただく・ごちそうになる、という解釈に示されるように、我々がこの挨拶に一種の(こう言って良ければ)宗教的な意味合いを持たせていることとも整合性がとれているように思う。
結局我々は、食事に単なる栄養補給以上の役割を持たせているのだ。「いただきます」も「ごちそうさま」も言わないで食事をとることが「下品」だと捉えられがちなのも、そこにある種の本能的な・動物的な傾向性を感じるからなのかもしれない。
そうした習慣が良いことなのか悪いことなのか、そして「いただきます」「ごちそうさま」を言う事が良いことなのか、言わないことが悪いことなのか、といったことはまた別の議論になるのだろう。少なくとも、言うことが悪いこととして評価されることはないように思う。
何かに強制されるようなことではないけれど、僕はこれからも「いただきます」と「ごちそうさま」を言うと思う。
以下日記。
二度寝からの朝9時半起床。すぐ業務開始。
大きめのタスクを片付けることに成功。これで今週はぐっと楽になる。おやすみ。