2024/10/14「生卵」
今日のテーマは生卵。
生卵って実はそこまで好きじゃなかったりする。基本的には温泉卵の方が好き。いや、みんなそうか。卵かけご飯の時も、電子レンジで温泉卵をわざわざ作ることが多い。いや、そうまでして食べなくても、と思うのだが、栄養価が高いとも言うので、できるだけ食べている。
鶏卵を生で食べるのは日本人くらいのものだ、とはよく言われるが、たしかに考えてみればゲテモノなのかもしれない。鶏肉は生で食べないのに、その卵は生で食べれる、というのは、世界的には少し感覚がずれているように映るのかもしれない。まあ、鶏肉も生で食べることあるけどね、日本人。
(鶏刺しといえば、3年ほど前に錦糸町のとある焼鳥屋で食べたものがすごく美味しかったのだが、カンピロバクターが怖くて今はもう食べようと思わない。)
生卵があまり好きではない理由は白身の食感だ。僕と同じ嗜好の方には共感してもらえるのではないかと思う。あのドロリとしたというか、あのデュロンとしたというか、文字に起こすのが難しい食感がどうにも好きになれないのだ。
ところで、僕は卵料理の時はできるだけ「カラザ」をとることにしている。黄身にくっついている白いにょろんとしたあいつだ。あいつだけは許せないという気概で排除している。これも単純に食感の問題なのだが、多少面倒でもこうした手間をかけている。
実際のところ、カラザには栄養があるみたいな話も聞いたことがあるのだが、それでも取ることにしている。こういう話をしていると、「もったいない」と言われるのかもしれないが、まあ、そうなんでしょうな。食べれるものを食べない、というのはたしかにもったいないことだ。
だが実際のところ、僕にとって卵のカラザを取るという行為はリンゴの皮を剥く行為と本質的には差異がない。ようするに、「食べれる部位ではあるが、食感や味が好みではないから取り除く」というだけのことであって、あくまで程度の差であるに過ぎない。「食べれるところを食べないなんてもったいない」という非難は、リンゴの皮を剥くといった、比較的一般的な行為に対しても向けられ得るものだ。もちろんリンゴの皮でなくても構わない。魚の鱗だろうが内蔵だろうが、「食感や味の好みを理由に、食べられるものを食べない」という行為に変わりはない。
だが、これは詭弁というものだろう。リンゴの皮もカラザも食べない人間よりも、リンゴの皮は食べないがカラザは食べる人間の方が、道徳性のレベルは高いように思う。1かゼロか、白か黒かという二者択一ではなく、道徳性にはもっとグラデーションがあるのではないかと思うのだ。害虫は殺すし家畜も食べる人間よりも、害虫は殺すが家畜は食べない人間の方が、道徳性のレベルとしては高いのかもしれない。
もちろんこれは、「生命を奪う人間よりも、生命を奪わない人間の方が道徳的である」という、極めてセンシティブな、controversialな主張を容認している、という意味で、前提がそもそも揺らぎやすいものであることは間違いない。
結局、「もったいない」だのなんだの言っても、結局は味や食感といったある種の「快」によって上書きされてしまう程度の主張に過ぎない部分があるのだろう。
それでも僕はカラザを取って生卵を食べる。その代わりと言ってはなんだが、リンゴはできるだけ皮ごと食べるようにしている。(代わりになってるか?)
以下日記。
深夜3時頃まで眠れず。朝7時に起きる予定がしっかり9時起きになる。準備をして新宿へ向かう。今日の目的は冬服。会社に着て行けて、かつプライベートでも着れるセットアップを探していた。
ルミネを見て回り、アーバンリサーチで上下2万6千円のセットアップを購入。高いが、そもそも服を買う頻度が低いため、このくらいは許容範囲だ。インナーなんかはいわゆるファストファッションに頼りがちだが、ジャケットくらいはいいものを着たい。すこし明るめなカーキの色と、生地の質感が気に入った。
帰宅後、仕事の残りを片付ける。明日からまた仕事だ。今週は木曜まではかなり忙しい予定だが、金曜はすこし楽(というかあまりタスクがない気がする)なので、有給でもとろうかな。