『海の向こうでこんなこと言われた』#5
「今夜はいい夜になりますよ」
ロンドンタクシー。
今は様々だがかつては黒塗りのオースチンFX 4がその代名詞だった。
客席は広く、前方に収納された椅子を倒すと向かい合った形になり、最大5人まで乗れる。
乗る人数が1人増える毎に料金が加算されるシステム。
タクシー運転手のライセンスは超難関で、それこそロンドンの隅々まで知悉していなければならない。
同じ名前を冠した「ストリート」や「ロード」「レーン」「アベニュー」「コート」が全く異なった地点にあって紛らわしいのだが、
例えば「○○レーン236」と言うだけでピタリと建物の前に付けてくれる。
手を前に出して車を止めると運転手が窓を開ける。
外で行先を言ってから乗り込む。
到着すれば車を降りて窓から料金を払う。
運転席と客席はガラス窓で仕切られていて運転手と客の会話はまず無い。
これからの話のために長い説明になった。ま、聞いて下さい。
やはりNT(ナショナルシアター)公演の時、
夜が空いていたのでRSC(ロイヤルシェイクスピアカンパニー)の芝居を観ようと思った。
『真夏の夜の夢』
バービカンセンター(当時、RSCのロンドン本拠地)はウエストエンドから離れていて場所が分からないのでタクシーに乗った。
走り出してから10分後位だったか、
信号停止の時、運転手が仕切りの窓を開けたのでビックリ。
『お芝居を観るんですか?』
え?会話?
「‥はい」
『真夏の夜の夢?』
「そうです」
何なんだ?‥
『‥今夜はいい夜になりますよ』
「え?‥ご覧になったんですか?」
『はい、家族とね。素晴らしかった!』
で、窓を閉めた。
‥おお!何?このいい気分。
道のプレートに「バービカン」
そろそろかなと思ったらまた窓が開いた。
『本当はタクシーは敷地の外までなんですがね、劇場のドアの処まで行きますよ』
「ありがとう!」
劇場に入って驚いた。
若いカップル、老夫婦、子供連れのファミリー、
20時開演なのに凡ゆる年齢層で客席が埋め尽くされている。
芝居はホントに素晴らしかった!!
重厚で軽快で、お茶目で洒落ていて‥
ハーミアとヘレナの子供の喧嘩みたいなやり取り、
職人たちの極めてマジメな間抜けぶり、
彼らの劇中劇の素敵なアホらしさ!
はげ頭でおデブちゃんのパックの困り顔‥
客席全体が足で床をバタバタしながら笑いこける。
僕も涙を流して笑った。
そして終演。
全ての観客がみな満足げで誇らしげに劇場をあとにする。
‥なんて国だ!!
まもなく0時になる道を、笑顔で語りさざめく人々の後について地下鉄の駅に向かった。
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