タマゴのような自分と対照的な親友

感情を見せず、ポーカーフェイスで周囲と距離を取って、1人を好んでいた自分だったが、全く平気だったのかと言われればそうではなかった。

どんどんと作られていく周囲から見た”自分”と自分が隠している”自分”との差が広がっていくばかりで、帳尻を合わせるのに精一杯だった。

授業の内容を”○○(私)ならわかっているから大丈夫だ”と思われることや、クラスでグループの輪に入らなくても”1人でも問題ないのだろう”と声をかけられないこと。

確かに”強い人””そつなくこなせる人”に見られるということは望んでいたことだったが、素直にわからないことをわからないと言えない、助けてほしいときに声を上げられず平気なふりをするのも辛いことだった。素直に降参と白旗をあげればよかったものを、”弱みを見せたら終わりだ”という謎のプレッシャーから地元を離れるまで周囲のイメージする私を演じ続けた。

(数学が死ぬほど苦手だった私が、とある日テストでとんでもない点数を叩き出したとき、先生から「もっとできる子だと思ってた」と言われたことは忘れられない。)

外は堅そうなのに、中身はとてつもなく柔らかくてもろい。そんな自分を”タマゴ”のようだなぁと思い、我ながらいい例えだと思っていた(これは別に今後何の意味もなさない)。

話はがらりと変わって、今でも私の大切な友人Aは、鉄壁の鎧をまとう私とは正反対で自分の感情にとても素直でまっすぐな人だ。

喜怒哀楽の感情を躊躇なく見せることができ、素直に気持ちを言葉にして時には本気で誰かとぶつかり合う。それでも全くいやみがなく真面目で誠実。自分の周りにいる人だけではなく、赤の他人にも同じくらい親切に対応できる。そんな彼女は学校の誰からも好かれていた。廊下で彼女とすれ違う人の中で、彼女を無視する人などいなかった。

そんな彼女の隣をなぜこんな私が歩けていたのかは謎でしょうがないが、彼女は私を見捨てずに地元を離れるまでそばにいてくれた。彼女を誇らしく思う反面、学校を一緒に歩いていた時に話しかけられている・慕われている光景を隣で見ていると、どうしようもなく自分が醜く恥ずかしい気持ちになった。

”彼女のようになりたい”という気持ちが、後の対人恐怖症克服の際のイメージモデルとなり、今でも私の指針になっている。

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