真の弱者は加害側にまわっている人たちの中にいると思う
「真の弱者は助けたくなるような姿をしていない」という言葉を紹介しているYouTube動画に「私もブスだから」とか「おっさんだから」とかいうコメントを書く人がいたが、別に彼らは真の弱者ではないと思った。
私の通っていた小学校はマンモス校で、それはもう色んな境遇の同級生がいた。中でもよく思い出すAは毎日のように人を殴っている問題児だった。自分の取り巻き達、特に仲の良くないクラスメート、通学路に歩いていたおじいさん、私も一度ボコボコにされた。
当時、私にとってAは「100%悪」だった。そんな彼にちょっかいを受け泣いてしまい、皆から保護を受ける女の子や問題児を責め続ける担任、何も考えずそれを傍観していた私は「正義側」にいると思っていた。
Aは中学校を退学したらしい。私は中学受験しており、近所の公立には行かなかったので人づてに聞いた話だ。何でも喧嘩で相手を意識不明の重体にさせたとかで、聞いた当時、「ざまあみろ」という感じだった。
最近Aのことをふと思い出して名前を検索をかけたら上記とは全く別の罪で捕まっていた。今度は成人してからの逮捕だったので、名前がちゃんと出ていた。これを知った時の心境は中学生時代に感じたそれとは全く違うものだった。
自己責任論。嫌いだと思っていたが、自分自身も根強く持ってしまっているものだった。
「何でこんなに勉強できないの?」「何で実家出ないの?」「何で好きな人に連絡すらできないの?」
口には出さないものの、よく思ってイライラしていた。できないことの表層だけをすくいとって、その人がそうなるに至った背景も考えず、自分以外の価値観が多くあることも考えず、人に押し付けてしまっていたこともあるかもしれない。
Aは虐待されていた。両親は再婚していて、腹違いの兄弟がいた。腹違いの兄弟と比べられAは虐げられていたのだ。当時私はそれを知っていた。それでも、「やっぱりヤバいやつの家庭もヤバいのだな」という感想しか出てこなかった。違うのだ。ヤバい家庭だったからヤバいやつになってしまったのだ。殴られていたから殴ることしかできなかったのだ。
もちろんAは被害者を出してしまったので、それについてはしっかりと向き合い、罪を償うべきだ。しかし、社会がAをこれからも責め続けるだけになれば、またAも人に攻撃し続けるのだろう。私は今Aに再会したとしても、彼に優しくできない。彼は攻撃的だから、隙を見せることになる。彼も皆に隙を見せないだろう。
私一人では到底解決できない問題だ。社会とか福祉とか大きな単位で取り組むべき問題だと思うが、今も私の周りは私以上に自己責任論を無意識のうちに振りかざしている人ばかりで、私も傍観者の一人となってしまっている。