すゞめ-6
その年の暮れ、エダさんは一つ飛び級となりました。前期を一年で終了し、後期に上がられたのです。最高学年で首席だった者は、試験免除で大学へ推薦されます。学力優秀で飛び級になった生徒は、一つ上の学年でも一番にならねばなりません。けれど、教員室に呼び出されたエダさんは、飛び級を即答したといいます。
エダさんは、どんどんと先に進んで行きます。その背中を見ながら、私は、彼女が後ろを振り返らないことに安堵しておりました。エダさんに、足のとまりかけている私を、見て欲しくはなかったのです。
三年に上がり、私は普通科を選択しました。工科、商科に進むと、その先には就職があります。私はどちらの就職先にも、自分が働く姿がイメージできませんでした。かと言って、普通科に進んだのは、大学へ行きたいと思ったからではなく、ただ、エダさんとの約束を守るためと、工商科の選択をしなかった結果、というだけでした。
普通科三年になり、私はますます成績が振るわなくなりました。普通科には、大学を目指す人が多く進むため、一・二年次の成績優秀者ばかりで競うことになるのです。
その頃、私はよくエダさんに勉強を見てもらっていました。三年に上がったばかりの頃は、エダさんも苦労されていましたが、四年に上がってからは、学年で一、二を争うほどになっておられました。
「エダさん、あの……。」
最終のバスまで、図書室に残るのが日課になっていた私たちは、日が暮れた図書室に、この時は司書さんもおらず、二人きりでした。
「エダさんは、大学に行かれた後、どうされるおつもりです?」
誰にはばかるともなく、ひっそりと訊いた私に、エダさんは少し迷うように目を伏せられました。
「私にも、まだわかりません。大学に上がったら、私の知らない職業も、きっとたくさん見えてくると思いますから。」
「見えたら、お仕事を決めることができますか?」
伏せていた目を上げると、エダさんは光る目で私の顔を見返されました。
「決めます。私には何より目標があるのです。」
「お父様と対等に働くという?」
「ええ。それに今の私には夢がありますの。」
そう言うと、エダさんは一冊のノートを開かれ、スクラップされた新聞の切り抜きを見せてくださいました。中には、日本人の男の方が、外国の方に囲まれ写真に写っていました。
「この方、一昨年の国際デザインアワードで一等を取られたんです。ヨーロッパで開催された大会で、各国に混ざって日本人が取られたのです。」
私は驚いてノートからエダさんの顔を見上げました。
「世界で一番になるのが夢ですか?」
エダさんは、はにかむように笑われると、ノートを鞄に直してしまいました。
「夢、ですけれど。でも、私も目指したい。そうやって仕事をしたいと思っています。」
私は目眩がしそうでした。私がもたついている間にも、目の前の娘さんは、どんどんと高みに登って行かれます。同時に、これほど情熱を持ったエダさんが、高い目標に挫折しないか、私は心配になりました。
「……その、夢が叶わなかったらどうされるのです?」
笑みの残るエダさんの顔の中で、瞳が輝きました。
「それでも、夢を叶えるために努力するでしょう。私は今まで、夢や目標を掲げて、達成するべく頑張ることを何より大事にしてきましたし。それが、仕事のやりがいじゃないかと思うのです。」
エダさんの通る声で、確信に満ちた言葉を聞くと、子供の頃と同じように、私の胸は震えました。なんと強い言葉なのでしょう。そして、なんと明確で正しいのでしょう。
エダさんの言葉は、私の中の熱意に、再び力を与えるような気がいたしました。
しかし、それはほんのひと時のことで、少しすると私は、エダさんの与えてくださった火種をまた、ダメにしてしまうのでした。
秋、大学への推薦は、コギノ・エダさんに決まりました。
もとの同級生である三学年の生徒に、エダさんが囲まれ祝福されている姿を、私は教室の戸口に立って見つめておりました。その知らせは、私の胸にとぽん、と波を立てて落ちると、あとは静かに沈んでゆきました。
私の中にはエダさんを祝福する気持ちと、おいて行かれることへの不安、そして悩みも迷いもなく、先に進んで行かれるエダさんへの、憎しみにも妬みにも簡単に変わってしまう、危うい羨みが混在し、素直に祝う言葉が出てきません。様々な気持ちが渦巻き、言葉にならない心の中で、ただ、
――ああ、これでエダさんは遠くへ行ってしまわれるのだ。
という思いが、この時の私の全てでした。