じいちゃんがボケたらしい。
じいちゃんがボケたらしい。
――ご近所さんから連絡があってね。おじいちゃんの様子が、最近おかしいらしいの。朝夕のお散歩で、誰もいない空に向かって、何か話していたり、急に口髭を剃ったかと思えば、次の日にはあの顎髭にリボンを結んでいたのだって!
近所の子供も怖がる厳しいじいちゃんの、仙人みたいな長い髭に、可愛らしくリボンが結ばれているところを想像して、いいんじゃないのと言うと、母は声を尖らせた。
――良くないわよ。おじいちゃんが散歩に行きっきりになって、どこかの道端でのたれ死んでも、誰も気がついてやれないじゃない。足腰はまだまだ丈夫だから、とんでもないところまで行っちゃうわよ、きっと。ともかく、キョウコ、もう夏休みでしょ? おじいちゃんの様子を見に行ってくれないかしら?
受験を控えた弟が家にいる母は、大学の下宿先がわずかに、じいちゃんの家に近い私にそう命じた。私にも予定があると言いたかったが、残念なことに恋人がいないのは、母に見抜かれている。母たちが来るお盆までの約束で、私は田舎の古い日本家屋を訪ねた。
昔庄屋をやっていたおかげで、無駄に広いじいちゃんの家は、左右をピカピカの新築住宅に挟まれ、みすぼらしく年老いた大きな身体を恥ずかしがったのか、陰に隠れるようにしてひっそりと建っていた。母はこの家の一人娘だが、今のところ家を引き継ぐ予定はない。もちろん私もだ。
こんもり茂った草木に、じわじわと侵略されている家の、割れたまま放っておかれた塀の瓦には雑草が花を咲かせていた。
ばあちゃんがこの家からいなくなって一年経つ。
その一年で、じいちゃんは驚くほど料理の腕を上げていた。大きな座卓にはちらし寿司に煮魚に筑前煮と、ばあちゃん顔負けのご馳走を並べて歓迎してくれた。すごい! と驚くと、じいちゃんは珍しくニンマリと笑った。
――ばあさんのおかげでな。ばあさんも、キョウコが来るのを、楽しみにしていたからなあ。張り切ってこしらえてくれた。
そう言ったじいちゃんに、私は微笑み返した。じいちゃん、いよいよか。
出迎えてくれた時の顔つきや、声の張りや、足腰の丈夫さにすっかり油断していたが、これは心配していた通りの事態らしい。
長い白髭が、三つ編みでリボンが結ばれていたことと、食卓に四人分のお茶碗があったことは、母には連絡しなかった。料理はばあちゃんと同じ味がした。
家には母家の他に離れや蔵があったが、長く使われていない渡り廊下の屋根や床は朽ちて、所々抜け落ちている。子供の頃は、半分開いたままの板戸から覗く、離れの暗闇や、蔵の二階に小さく開けてある暗い格子窓などが怖かった。おじいちゃん家というと、たくさんのご馳走と、お化け屋敷にいるような不気味さが、セットで思い出されるくらいだ。
風呂の後、縁側を歩いて荒れた庭を見ていると、昔、弟と怯えていた大きな松や石灯籠なんかが、月明かりにぼんやりと見えた。井戸や蹲もある広い庭だが、じいちゃんは手入れしないらしく、一年で草花が繁茂して、今見ても気持ちのいい景色じゃない。ばあちゃんがいなくなった家は急速に朽ちつつあった。
ばあちゃんは他所から嫁いだお嫁さんだったが、じいちゃん以上にこの古い家を大切にしていたように思える。大工仕事はしなかったものの、母家はいつも雑巾できれいに磨き上げられていて、私には雑草にしか見えない庭草の名前もよく知っていた。
――何人ものご先祖さまが、大事にしてらしたお家だから、私たちも大切にしなくちゃね。
じいちゃんとばあちゃんは仲が良かった。小柄だったばあちゃんは、温かな春の風に、ニコニコ揺れるたんぽぽのような人で、じいちゃんはばあちゃんの前では優しくなる蜜蜂みたいだった。ばあちゃんが先に亡くなったとき、母さんも私も、真っ先にじいちゃんを心配した。病院で憔悴しきったじいちゃんは、急に世間のおじいちゃんと同じように、小さく歳をとって見えた。痩せて力のないままだった正月に比べれば、まだ今の方が、元気になってマシだろうかとも思う。
虫の音しかない静かな夜だった。
じいちゃんはばあちゃんが居た時と同じ、仏壇のある部屋の隣で寝て、私は廊下を挟んで隣の座敷に寝る。
うつらうつらしていた私は、パタリと聞こえた物音に目を覚ました。小さな戸が開くような音がキイとして、ついでずっ、ずっ、と畳を滑る足音がした。じいちゃんかと思ったが、軽すぎる足音に、すぐに違うことがわかる。この古屋敷だ。何が出てきても不思議じゃない。
身構えて身体を起こすと、座敷の前の廊下を、スルスルと和装姿の女性の影が歩いていくのが見えた。
――出た。
息を止めて気配が遠ざかるのを待つと、そっと座敷を忍び出た。
――じいちゃん。大丈夫?
細く開けた障子の内には、蝉の抜け殻みたいになった布団しかなく、驚いて中に踏み入った私は、仏間の襖が開いていることにびくりとした。
――あや! キョウコ、どうした!?
襖の向こうで、じいちゃんが三つ編みの髭を振って、振り向いた。
――じいちゃん。何してるの?
――い、いやあ……。ちと、ばあさんとな。話をしておって。
――ボケたか。
――失礼な!
にわかに全盛期の勢いを取り戻したじいちゃんから、庭に視線を彷徨わせた私は、庭の中に立っている白い人影に睨まれているのに気がついた。吊り上がった目に、スッとし過ぎるほど通りのいい鼻筋をした、着物の女の人だ。
――あれは稲荷の狐。大昔、わしが京都土産に買ってきたお狐じゃ。
私の視線を追って、じいちゃんがそう言った。なるほど、そういえば寝室の箪笥の上にあったはずの、白い狐の置物がない。
――今までは、ばあさんが、あちこち家の手入れをして、目を光らせておったから、大人しくしておったが、庭の梅が咲いた頃から、夜になると動き回るようになった。あれはばあさんと仲が悪い。時々箪笥をひっくり返したような大げんかをする。
――ほほう。確かに。
女の勘では、あの狐はじいちゃんに気があるように見える。物好きな狐もいるものだ、と妙に納得した。大人になったせいか、実際に見える姿に化けて出られると、不思議と怖くないものだった。子供の頃恐ろしかったのは、長い時間の中で家に宿った、いくつもの気配だけを感じていたせいだったのだと、腑に落ちる気さえする。背後でスッと襖を引く音がした。見れば細く開いた隙間のずっと下に、娘姿の美しい日本人形が立っていた。
――ばあさん。どこに行っとった。
――あら。朝ご飯の支度ですよ。キョウちゃんが来ているのに、食パンじゃかわいそうじゃないですか。
じいちゃんに話しかけられ、私の膝下くらいの背丈の人形が、鈴を転がすような笑い声を立てた。これがばあちゃん? 私の気持ちがわかったのか、日本人形がふっくりした小さな唇に笑みを浮かべた。
――よおく来たね、キョウちゃん。こんな格好でごめんなさいね。怖がらせたかしら。
奇妙なもので、日本人形の姿には一瞬ギョッとしたが、覚えのある口調を聞くなり狐の置物が化けたよりもずっとすんなり、ああ、ばあちゃんが戻って来たのだ、と素直に思えた。
――ううんそんなことはないよ。ばあちゃん、その身体でお料理できるの?
――ほほほ。案外なんとかなるものよ。おじいちゃんが手伝ってくれるし。
――なんだ。やっぱり、じいちゃんの料理じゃなかったわけね。
――やはりとはなんだ!
隣でムッとしたじいちゃんに、若くて小さいばあちゃんは微笑んだ。
庭で私とばあちゃんを睨みつけていた狐は、ふいっとどこかに消えていた。
じいちゃんの口髭を剃ったのは、狐の仕業だったらしい。そのことにばあちゃんが怒って、顎の方を三つ編みにしたようだ。狐がじいちゃんに触れないようにするマジナイらしい。
――散歩の時に使っている杖はわしの爺さんのものじゃが、今でもその時の癖で、爺さんの歩いた道に勝手に行こうとするから、時々叱らにゃいかんのだ。
ばあちゃんが夜のうちに用意した味噌汁や、卵焼きを温めて直した朝食をとりながら、私はじいちゃんの話を聞いていた。明け方、仏壇の扉を閉める音を聞いた気がして、朝の明かりに見てみると、扉の中にはばあちゃんの写真と一緒に、昨夜の日本人形が座っていて、埃のない箪笥の上には狐がいた。
――なるほど。ご近所さんはその様子を見たわけね。ともかく、じいちゃんがボケたのでなくて安心したわ。
――そうそうボケていられるか。ばあさんに心配かけるわけにはいかんし、そんなことになれば、家のモノたちに叱られる。
――他にも出るの?
――ああ、ようけ出てくるぞ。退屈せん。
――楽しそうね。
私はもう少し、夏休みをこの陰気な家で過ごそうかと思い始めていた。