すゞめ-9
私は子供を三人産みました。十年近く、おしめを変える日々が続き、手も目も離せない慌ただしい時期を過ごしました。上の子が小学校へ上がり、末っ子もおしめが取れて一息ついた頃から、私は週に一、二度、町の小さな裁縫工場に、事務のお仕事をしに通うようになりました。子供に田畑にと、忙しくしていた私に、少し家から離れた仕事でもしてはどうかと、夫が勧めてくれたのです。
この仕事は、私が初めて、ブラウスとスカートを着て、机で行う仕事でした。工場の女性たちは、村に残った女たちとは違い、町の気風に染まり、港にやってくる都会の空気に憧れ、船でやって来る商人やお客の噂が大好きで、私も楽しく仕事ができました。
同じ頃、私は村の女たちから、子供達に勉強を教えてくれと、依頼されるようになりました。私は長女が学校に行った頃から、子育ての合間に勉強を見てやっており、長女が綴り方で一番を取ってから、そうした依頼が増えたのです。
子供が全部学校に上がってしまうと、私はうちの居間で、子供達に勉強を教えるようになりました。うじゃうじゃと子供がいる、大変な勉強会でしたが、忙しい中になんとも言えない喜びのあるお仕事で、休みごとのこの大変な仕事に、私はやりがいを感じるようになりました。
私はこうして、名もつかないような沢山の家事や、お手伝いのような簡単な事務仕事、仕事と言えないような子供の世話に追われながら、小さな達成感を積み重ねていました。
こんな日々が続くと、昔のことを思い出す暇もありません。私はいつしか、エダさんにお会いし、共に海の向こうを目指した日々が、実は夢だったのではないか、と思うようになっていました。
そんなある日のことです。
夫に呼ばれて表に出てみると、そこには、十数年のうちにすっかり様変わりされた、コギノ・エダさんがいらっしゃいました。
おかっぱ頭は、都会風にパーマを当てられており、襟元のゆったりとしたブラウスには、薄生地でふんわりとしたボウタイが結ばれております。下はスカートでなくパンツ姿で、なんとも言えない、洗練された雰囲気をなさっていました。
久しぶりに見た彼女は、強く美しい女性になっておりました。
「お仕事で、昨日この港に寄ったのです。明日の朝には出発になってしまうんですが、メルさんに、一目お会いしたいと思って。今夜は町の宿に泊まるのですけれと、夕方のバスまで、少しお話しできませんか?」
エダさんはそう言われると、散らかった家にあたふたしていた私を、簡単に外に連れ出してしまわれました。
「ご結婚なさってたんですね。」
ろくに化粧もしていない私は、はあ、とか、ええ、とか言いながら、子供に戻ったように足元に顔を伏せて、エダさんについて土手道を登り、村外れの柿の木までやって参りました。
村の中で、この柿の木の下が一番よく、海が見えるのです。
「エダさん、あの……」
私はうまく言葉が続きませんでした。私は、エダさんを裏切った張本人なのです。その証拠に、エダさんは散らかった家も、継の当たった私の野良着もご覧になっているのです。
せめて、事務のブラウスとスカートであればよかったのに、と私が思っておりますと、エダさんは振り向いて微笑まれました。
「メルさん、今、とてもいい目をしてらっしゃいます。ご結婚も子育ても、メルさんは良い選択をなされたのですね。」
そう言われて、私は思いもよらぬところから、頬を叩かれたような気がしました。「ええ。」と答えた私の声は、喉の奥でつかえて、かすれていました。
エダさんは海に目を移されました。
「私、デザインの会社で働いておりますの。広告やパッケージやなんかを、私はやっています。とてもやりがいはある仕事ですのよ。」
彼女はご自身の仕事をお話しくださり、大変なお仕事の一端を覗かせてくれました。けれどそのお話しを聞きながら、私は背中に冷や汗をかいておりました。
彼女の一言を聞いた時、私はエダさんが、私の裏切りに気がついておられたのだと、知ってしまったのです。エダさんの声にも表情にも、私を責める色も、失望した様子もありません。けれど、確信されていたような声色に、私の心臓は、鷹の爪で掴まれたように、キリキリと痛みました。
エダさんのため息に、私ははっと緊張しました。
「皆、メルさんのように、自身の望みを、始めから見つめてくだされば良いのに。私の勤め先は大きな会社なのですけど、途中で仕事を辞める女性がとても多いのです。
私、それがとてももどかしいですの。熱意を持って仕事を選び、いざ仕事を始めても、結婚や出産で、やむをえず仕事を辞めねばならない。お話を聞けば、仕方がないと納得するのですけれど、毎年、熱意を持った若い女性が入社するたびに、その熱意が断たれる時がくるのではと思うと、やはりもどかしい。」
エダさんの横顔は、寂しげに見えました。彼女には、同志のような女性がいないのだ、と私は思いました。鷹は、いつまでも一人で空を舞っているのです。
一度は同志となり、そして裏切った私には、何も声をかけられませんでした。
夕日が山に隠れ、村には日が差さなくなりました。バスの時間が近づいて、エダさんは村の外を指差して、私は一緒に戻り始めました。
「そうかと思えば、始めから仕事が二の次の方もいらっしゃるの。そういう方を見るたび、この方達が、なぜ大学まで行って仕事を選んだのか、わからなくなってしまうわ。」
そう言うと、エダさんは私の方を振り返られ、真剣な眼差しを向けられました。
「メルさん、あなたは今、夢や目的ってあって?」
私はこの時の気持ちを、なんと言って良いのか分かりませんでした。一瞬、殴られたようにどきりとし、次には、エダさんに対する反発が、急速に胸に生まれたのです。
「わたくし……、私、今まで懸命に働いておりました。一度だって、働くことに手を抜いたことはありません。……私には、それで十分なのです。」
私の声は上ずった調子になり、決して聞き良いものではありませんでした。エダさんは、私の言葉を吟味するように、しばらく私を見つめておられましたが、少しして、お礼を言ってバス停の方に、一人、下って行かれました。
翌朝、私は一足先に起きて、朝ごはんの用意に取り掛かっておりました。汁物に入れるのに、畑に出た時です。遠く、薄靄の浮かんだ朝の海から、ボーッと船の汽笛が聞こえてきました。腰を上げて見ているとまた、ボーッと、今度は長く震えながら、近くの山に響くような汽笛がなりました。港から出た大きな船が、煙を吐きながら、街の方に進路を取ります。
エダさんが乗っていらっしゃる船を見送りながら、この土地に根付いてしまった私を、彼女がどう思われたかを考え、そうして一つ、彼女に問うことができなかった思いが、ポッと言葉になりました。
「――あなたは、男として生きたかったのですか?」
きっと、エダさんはもう、この村にはやって来ないでしょう。もう、問うこともできない思いを、そっと口にして、船が山の影に見えなくなると、私は青菜を片手に、台所に戻ったのです。