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風景カメラマンとそうでない人が揉めるわけを考える


誰もがカメラを持つようになり、写真家の裾野がとても広い現代。機材の価格や準備の手間といった数々のボトルネックが軽減された結果、写真を撮る人の問題が、マス・メディアで取り上げられることが多くなった。この問題は“風景”を研究している自分にとって興味深い。また景観政策の議論とは違って、ヒトが日々の風景を経験することの刹那的な現象を考えるぶん、カッチリした理論が組み上がるわけでも、なかなかない。世に関わる提言も、こういうそぞろに書ける場所から、わかりやすいテーマで始めるほかない。

風景の写真を撮る人と、そこを通りかかっただけの人との間で、トラブルはたびたび起こる。まさにこの記事を書き始めた日の、朝の出来事。京都市内の萩が有名な寺で、トラブルにかち合った。境内は山門をくぐると、奥に本堂を構え、そこまでの50mほどの道の両脇に萩のこんもりしたのがおい茂る、とても小ぢんまりした場所である。道のとちゅう、寺務所や本堂の裏手に回る道、地蔵堂への道がちょこちょこ伸びている。山門は少し高台になっていて、萩の海となった境内が一望できる。ここがカメラマンたちのビューポイントなのだ。


かく言う自分もカメラマン。アマチュアみたいなものだが、10年以上。何かと煙たがられることの増えた撮り鉄もするし、風景全般が被写体だ。山門で境内全域の様子を収めようと、団子になっている彼らの魂胆も凡そわかっている。

風景写真家は人の写り込みを嫌う。ただ観光で訪れた客が何気なく景色を記念撮影し、帰って見返したところ、知らないオバチャンのこっちを向く顔が写り込んでいたという話は、彼らの写真ではもっての外。つまり彼らのシャッターチャンスは、ほんの一瞬しかない。風景が「完成」するのを、ひたすら他力本願に待つのだ。


本堂の脇の萩が茂る裏で、自分は撮っていた。道の真ん中でカメラを携えお喋りしていたのは、中年の夫婦とみえた。それともうひとり女性が立っていた。まあまあ人が途切れることのない、駅前にある寺で、散歩がてらといった気軽さで来られる場所だ。その三人が立っている場所を、自分も撮りたいなぁと待っていた。すると、山門のほうから男性のわめき声が聞こえてきた。「みんな待ってるねん! そこ立ってやんと……(よく聞こえず)」。

立っていたうちの一人の女性が男性のもとへ行き「ゆっくり見たら、あきませんの!」云々と、言い返している様子だった。「それは言うたらアカンやろ」とか「こないだもシッシッてされた」とか「だったら早朝に来ればいいじゃないですか」といった、カメラマンへの苦々しい思いやら、出過ぎた行為を嗜めるギャラリーの声やら、朝から耳にしたくもない問答が1、2分続いた。

たかだか萩を見るくらいでケンカするなよ……、というのが正直な感想だ。どうしてカメラマンは楽しく撮れないのか。撮影の邪魔をしてやろうとか、突っ立っている人に難癖をつけてやろうとかの、どちらにもそうした悪意がないだけに、困った問題である。確かに自分も風景写真を撮っていて、前のあの人が除いてくれたらなと1時間ほど、そのあたりで待っていたことは幾度もある。しかし、その人のタイミングもあるだろうから無理に除けることはしない。相手に申し訳ないからというのは綺麗事で、無理に人を動かしたきまり悪さが自分に残るからだ。

譲り合いや話し合いで解決したらいいじゃない、と言えばそれまで。けれど、風景を見ることや感じることへの解釈を深めれば、こうしたイザコザも教訓のようになる。じつは風景のこうした問題には、複数の見方が絡んでいるのだと、自分は訴えたい。複数の観点が存在しているというのはすなわち、誰もが何の変哲もなく捉え感じている風景というものが、一筋縄で理解できないことも意味する。


ある程度話を単純にするため、物理的な問題と風景を見ている人の気持ちや考えの問題に、大雑把に分けてみる。前者は後者を背景とする。しかし、両者はたいてい別々の問題として曖昧に広く認識されている。だから風景をめぐるイザコザは、目先の「邪魔だ」「立っていて何が悪い」という物理的問題としてしか処理されない。本当は、風景の問題は整理すべき論点が多い。

物理的というのは、ひとつには人の位置関係のことだ。カメラマンの求める構図はえてして広い範囲に影響する。たとえば桜の木いっぽんを撮るのにしても、木のそばで花一輪をよく写そうとするより、数メートル、あるいは数十メートル離れたところから撮る。すると、木とカメラマンの間には、通行人の入り込む余地ができる。いっぽうで写真を趣味にしない人は、間近で景色を楽しもうとする。離れた場所から、その桜の木をずっと見つめている人がいないように。遠くから全体像を把捉しようとする人と、もっとそばで対象への没入を望む人が併存するのは、やや難しい。カメラマンにとってみれば、いつ移動するかもわからない一般人を、そのうえ入れ替わり立ち替わりやってくる人が途切れるのを、ずっと待つわけだ。位置関係というのが風景を見ることにおいて、とてもナーバスな問題となることがわかる。

ところでそのカメラマン集団も、別のアングルで狙いを定めるカメラマンからすれば、構図の邪魔になるときがある。この問題は、近ごろどうも悪名高くなってしまった、撮り鉄の間でしばしば勃発する。紋切り型と揶揄されることの多い、鉄道車両の編成を写すときだ。先ほど桜の例で紹介した、他の人の入りこむ余地が、編成撮りのときには生まれがちだ。それは鉄道写真特有の事情による。走行中の車両には無論、接近できない。それを撮るためには、望遠レンズで遠くから狙わなければならない。そのうえ、大きな被写体の全容を一枚に収めるのが界隈でのセオリーだ。全容といっても真横からではなく、直方体の車両を斜からとらまえる。

ただそれらセオリーは、必ずしも全ての撮り鉄が守るべきことではない。表現豊かで個性ある写真を撮るため、あえてセオリー通りの写真が撮れるポイントを外す者もいる。ここがミソで、ルールなど存在しないはずの写真撮影において、それぞれの意図がぶつかり合う瞬間、トラブルが起きる。この例にしたがって、人どうしの位置関係というのを言い換えると、各々のそのときどきの都合からなる状態であると表すことができる。わざとそこに立つ者もいれば、意識せずに立つ者もいる。こうした論理は撮影家vs.一般人の場合に限らず、撮影家vs.撮影家の場合にも共通して起きる。

ほんらい風景とは、偶然性に満ちたものではないか。写真家は被写体へのこだわりが過ぎるあまり、被写体に無関係なものの闖入が許せない。しかし、写り込んだ側にとってみれば、好きで入り込んだわけではない。そこを通りたいという都合があったまでだ。そこで写り込む人を怒鳴りつけるのは、風景の見方を暗に押し付けているようなものだ。風景の見方の押し付けは、それぞれの自由な都合を全体主義のように無視する。「よき一瞬の光景」のために、偶然性が徹底して排除されるのは、風景への民主的な態度とは言えない。

景色を作る主体は無数にある。その数だけなんらかの意図、あるいは偶然がある。それらを見る側、撮る側はややもすれば、完全な客体と捉えがちだ。しかし、主客の関係をフラットにしたところに、風景と対峙することの、より厳密な認識が得られるのではないだろうか。この世のだいたいの景色は、意図的には作られない。生活上の必要から作られた数多くの偶然が重なって、そこにマニアックな固有の楽しみを見出し、風景として人々は感受する。そしてその感受する人の存在もまた、ある人には風景の要素である。風景は主客を排した、その環境にとけ込む全ての存在が、強くなったり弱くなったりする相関関係のもとにある。こういう態度を民主的な風景と呼びたい。


物理的な話とは地形などのハードのことでもある。地形、それが形づくる動線のありようもまた、風景の感じ方の説明要素である。たとえば池泉回遊式庭園は、池の周りに順路が設けられ、草木や石組み、景物を楽しむ仕掛けを楽しむスタイルの庭だ。縁側から庭を一望するスタイルと違い、景色の中に人が入り込む。今回の萩の寺のハプニングは、池泉回遊式庭園でも起こりうることだ。つまりハードの形態は、人がどう景色と接するかを半ば決定する。美術館の体験型展示がわかりやすい。壁に架かった油彩画は手で触って鑑賞するものではない。対して、チーム・ラボのような展示は対象への没入感をエッセンスとする。ハードが人の介入を前提とするか否かで、風景のすがたも変わってくる。

くだんの寺は通路をとおって本堂へ参拝するつくりだ。萩を見せることを専らの前提とするなら、山門をくぐった先で柵を張っているはずだ。通路に立つ人を除けるというのは、撮影対象の性質を蔑ろにすることだ。ものの性質を捻じ曲げてまで撮った風景写真は、対象への理解すらなく作られた虚像でしかない。

意図せず自然にできたハードもある。それらハードは人の思いという、背景をもたない。名もなき風景だ。こうした風景こそ、楽しみ方は千差万別である。そしてほとんどの人に、こう見ると面白いという「見方の型」が発見されていない風景ほど、見甲斐がある。写真文化が浸透しきった昨今ではなかなか巡り会えないが、実は家の近所の通りでさえ、その可能性を秘めていることさえある。たとえば、茫漠とした田園風景だったかつての武蔵野の風景をフィーチャーした、国木田独歩。自然科学の考えに基づいて、地質や地形の美を再解釈し見いだした、志賀重昂。風景は至るところにあるということを、先人たちが解釈と探究心で示した。

「映え」も流行語になって久しいが、それを求めて追随する人たちではなく、それを見いだしたした人はすごい。もっとも、水鏡(水面に周りの景色が投影される視覚現象)じたいは古典化しているが、たとえば日常に目にする水溜まりへ世界を閉じ込め、ごく普通にある、どちらかというと汚いものに、驚異のスペクタクルがあることを、映え文化が世間に再認識させた。また、画像編集のパラメータがより微妙に操作できるようにおかげで、デジタル写真の視覚効果はより高みに引き上げられた。これも風景の発見に寄与している。伊丹空港を千里川から写した夜景写真や工場夜景写真のように、編集技術の高度化・多彩化は、風景の受け止め方そのものに、新しいフィルターを私たちの視覚に与えた。HDR(High Dynamic Range ハイダイナミックレンジ。明るさの幅を広くする)加工は闇の部分への認識を照らして見せた。誰かに伝えたくなるような風景は、人ばかりではなく、映像技術の進歩から反対に教わることも多い。風景が、見る人と対象との間に生じる単純な主客の関係だと、これだけの説明を尽くしても言い切れるだろうか。

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夏の夜闇に浮ぶ「法」の送り火も、HDRが幽玄よりインパクト重視の風景に変える



さて、最初の萩の寺での押し問答の中に、加えて扱っておきたい発言があった。「スタジオの人なら(人払いするのも)わかりますけど……」と除けられた女性と思しき人は言った。仕事という名目なら、風景の見方の強制は良いということか。風景の見方にお金が絡むときは、その要求を受け入れるというわけだ。

生業の邪魔はいけないという意識だろう。ただ、資本主義的価値観に風景を見る(撮る)ということが絡め取られているようで、違和感を覚える。ある景色を見る(写す)ことが権利という文脈で語られると、次のような笑い話もあり得てしまう。人からの視線がとても嫌いな大金持ちがいたとする。その人は大枚を振りかざし、あらゆる人から視線を向けられないようにする権利を買い取った。ある通行人がその大金持ちをちらっと見たところ、大金持ちの付き人から酷い叱責を喰らう。一瞥した人は反駁したが、付き人は「権利を買い取ったんだ、見るんじゃない!」と言って退けてしまった。

高圧的な人払いも、業者なら認めざるを得ないとなると、空気のごとく存在する風景をめぐった、札束の殴り合いがまかり通ってしまう。もっとも、私有の敷地を2000円、3000円という値段で公開するところもある。ただそれは、風景に値段がついたというより、景色を管理する手間賃だとも解釈される。しかし、撮影業者が生業のために撮影料を払って風景への権利を囲いこむことは、そこの管理者が囲いこむことと、ニュアンスが異なる。営利目的で撮影する権利を管理者から買い取ったまでで、他の人が自由に風景を見る権利まで買い取ったというのは、拡大解釈がすぎないか。お金は人の五感の自由を拘束する力まであるのか。

この議論を考えているとき、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授が著した『それをお金で買いますか 市場主義の限界』(鬼澤忍 訳、早川書房、2012)を、うろ覚えながら思い出した。曰く、全てが売り物となる社会は不平等を助長し、「腐敗」を生む点で問題だという。お金のことが第一となり、お金を通して果たされる真の目的が蔑ろとされる腐敗。まさかとは思うが、風景の話にも及びそうだ。


ところで「風景」を「景色」「景観」とここまで断りなく、勝手に使い分けしてきたが、一応の区別がある。ある環境が広がっているその様子を「景色」、それに地理学的、工学的、政治的が加わったものを「景観」、景色を感受した人が得た内容を「風景」と呼び分けている。中立的な「景色」、客観的色合いの「景観」、主観的色合いの「風景」とイメージしてほしい。


風景を見ることの「腐敗」とはどういうことか。風景との対峙とは、煎じ詰めると見ることや感じることだ。見方や感じ方の態度は自由だ。しっかり観察する者もおれば、友人とのお喋りを弾ませる添えものの華として、見たかどうかも少し怪しいくらいの者もいる。それくらい自由な感覚でもって営まれる風景との対峙は、手段と目的が非常に曖昧だ(ゆえに風景観賞が趣味だというと味気なく感じられるのもこのため。フットサルが趣味の人はボールを蹴ることが趣味なのではなく、得点を決めるとかチームでプレイする喜びを味わうためという具合に、手段と目的がはっきり区別できる)。そこに金銭的やりとりを強く介在させると、余計なものが写り込んでいない「完璧な景色」の追求に、目的はすり替わる。その目的を前に、自由な見方は萎縮する。風景の見方に強迫観念めいたものが生まれるのだ。仮に写真スタジオが金銭をめぐる権利を振りかざし、風景写真を撮るとなると、それは人の意識への介入となってしまう。なんでも値段がつけば、このように「腐敗」する。

たちの悪いスタジオが「ウチが撮っているのは『景観写真』だ」と、詭弁を弄するかもしれない。というのも、景観は商業上の理由から維持・造成・操作され、事業者がその方針を決める。つまり、その部外者が実際のところどう思うかまでは、じゅうぶんに考慮しきれていない。「写真スタジオの所望する景色」を撮ることに関して、同様にスタジオは部外者や闖入者の思いを考慮しない。だから景色ではなく「景観」なのだ、と。

その解釈は許されないだろう。景観の維持・造成はより複雑な、受容者への数々の利益が考えられるから、従来の景色を良いと思う人の主張ばかりを優先していられない。いっぽうで、いっとき風景を見たいという部外者の主張に対し、「景観の撮影」はどれほど優先的される利益を挙げられるだろうか。自分は等価だと思う。とはいえ、ここのバランス感覚は人によるので、よく考えてもらいたい。


今年6月、NHKが番組制作のため、尾瀬の狭い木道で通行人を足止めして撮影したことが、問題となった。風景撮影による公共の利益と、各個人の利益が天秤にかけられ、NHKの謝罪の結果、後者に重きが置かれた例として興味深い。風景の豊かな土地に身を置き浴する行為が、いかなる権利からも強制されない、人それぞれにとって根源的なものであるという判断が下された、と読み取れる。自由や権利に敏感な現代ならではの、風景をめぐる事件だと思う。




風景の楽しみ方への強制は、主観への強制である。もっとも、「こうなる瞬間」が見たいというのは痛いほどわかる。けれども、風景を構成する物理的な要件だけで風景を理解する限り、その理解は一知半解だ。主観とそれに伴い生じる人それぞれの都合、そして物理的要件が相まっての風景だ。撮影者の主観を中心に、完全な客体のみからなる世界が回っているわけではない。

そもそも、人はいるだけで邪魔なものである。自分にとって見ず知らずの他人ばかりいる場所であっても、多少知った人間たちがいる場所でも、そこにいる人たちはケースバイケースで、自分の行動や思いを阻む存在になるうる。そしてもちろんこれを読むあなたも、そしてこれを書く自分も、時と場合によって邪魔になる。だから、人などハナからいないほうが、誰の邪魔にもならないことは紛れもなき事実だ。「邪魔だと言うあなたも邪魔。みんな邪魔」。お互いさまなのである。


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