舞台、花は咲き乱れ(十)
講堂がほかの部活で使用されているため、今日は広めの空き教室を一つ借りて活動していた。クラス授業が行われる教室二つ分はあり、さらに机や椅子が端に寄せられているのでかなり広々として見えた。
演劇部の新人さんは今年も多かったようで、知らない顔がいくつもある。せっかく馴染めたと思っていた場所だったのに、すっかり雰囲気や、匂いまで違っている。小心者の脚本家は、縋れる存在を見つけて駆け寄った。
「ミナちゃん」
ミナちゃんはさっきから入ってきたわたしに気づいていた。笑顔で迎えてくれる。「どないしたん、びっくりした顔して」
「いや、今年も新入生が多いなって思って」
ミナちゃんは唇を薄く開いて笑う。「人見知り発動中ってこと? 去年もこの時期に顔出したやん、葵さんに連れられて」
言われて、それがちょうど一年前の話だったと思い起こす。ミナちゃんとともに文芸部の部室に行ったら葵さんがいて、彼女の案内でなぜか演劇部の活動場所へ移ったのだ。あのときもたくさんの知らない人たちに委縮した。それにしても、経過した時間は確かに一年なのだろうけれど、体感的にはもっと昔のことのような気がする。それくらい、思いがけないいろいろに見舞われたからかしら。
やっぱり、演劇部に来る生徒たちはどこか自信ありげで、頭の上から吊るされているみたいに姿勢がいい。本来なら彼女たちとわたしは生息している範囲が異なるはずなのに、どうして同居しているのだろうか。不思議な心地。
新入生はみな部長の入江千穂さんの指示を神妙に聞いて、発声や柔軟などに取り組んでいる。葵さんと貴子さんに指名されて部長に就任した千穂さんは、お姉さんというよりもしかすると年若いお母さんといった方が合っているかもしれない。肉付きがよくて色っぽさがある。なにより、常に柔和な印象を崩さず、安定感抜群。葵さんがふらふらとしがちなカリスマで、まじめだけどちょっと堅実すぎるきらいのある貴子さんといいバランス関係だったが、千穂さんはどちらかというと貴子さん寄り。二年生のもう一人、瑞希さんが葵さん路線を受け継いだ感じはあるから、今年のシーソーも変に傾かなさそう。
千穂さんは陰で「聖母」と呼ばれている。誰が言い始めたか知らないが、人前で声を荒げたことのない彼女はそう呼ばれている。わたしも落ち着いている千穂さんしか見憶えがないから、その愛称は頷ける。それにしても、陰で囁かれている名が「聖母」とは恐れ入る。
二、三言葉を交わして、ミナちゃんも部員たちの元へ行ってしまう。一人でぽつんと隅に寄り、周囲の様子を観察した。女子校の部活動は当然女子しかいないため、なんとなくいい匂いがする。みんなはどのシャンプーを使っているのだろう。
だんだん、新入生の顔ぶれに目をやることができた。動きが機敏だし、かわいい子ばかり。翡翠ヶ丘の方のミナちゃんが喜びそうな絵だ――むろん、翡翠ヶ丘の演劇部にもかわいい子が多いけれど――と思っていると、一人の少女に目が留まった。
胸の内でいろんな感情が一度に湧いてきて、すべてぶつかり、かえってなにも残らないみたいにして。その少女を目にした瞬間、あらゆる思考はストップし、周囲の声も遠くなった。わたしだけさっきいた場所から隔てられ、今朝見ていた夢へ引き戻された感覚。
あまりにもそっくりだった。眼鏡をかけていて、髪型は三つ編み。高校に入ってショート・ボブにした花音の中学生の頃に瓜二つの少女が、そこにはいた。顔立ちや、笑い方なんかもよく似ている。周りと談笑している様子などからは、彼女から積極的に話しかけないあたり、花音と比べて控えめな性格だと分かる。
それからずっと目が離せなくなった。一挙手一投足を捉え、脳裏に焼き付けんばかりだった。一度その存在に気づいてしまうと、もうどうしようもなく意識せざるを得なかった。
窓の向こうに聳える山が茜色に染まる段になって、今日の活動は終わりとなる。せっかく顔出しに赴いたにもかかわらず、わたしは新入生たちに挨拶すら果たせず、のこのこと家路についた。――ただ一人を除いて。
沼田鈴花。それが、花音似の少女の名前だった。
◯
古びたこの校舎で囁かれるいくつかの噂。明らかに作り話だろうと一笑にふせるものもあれば、これはほんとうのことではないかと色めき立ってしまう類のもある。結局は、根も葉もないと切って捨てるも、火のないところに煙は立たぬと信じるのもそれぞれの自由。
特に囁かれていなかったが、あたしが気にしていたことがあった。それは、いのりさんがお付き合いをしている相手の誰何で、すでに解決を見た。もしかしたら、学校の傍で密会を繰り返したかさねさんのことも噂されていたのかもしれない。
なんにせよ、女生徒たちは色恋沙汰が好きなようで。わたしだって、周りの人が誰に好意を寄せているのか、あるいは、誰かから好かれているのか、みたいな関係性について気にならなくはない。気にならなくはないけど、積極的にその答えを求めようとしない。
一つの噂を最近聞いた。学校の奥まった位置にある、普段は使われていない非常階段で、密会を繰り返す生徒と先生がいるらしい。話していた当人たちは、禁断の恋、だなんてはしゃぎ気味だったけれど、その設定がかえって作りものめいている。第一、わざわざ校内で危険を冒さなくても。
「ん? どうした、深川。おれの顔になんかついてるか?」
今日の部活には珍しく顧問の相川先生が顔を出していた。幽霊部員より幽霊顧問の方が困りものだけど、それでも来たら自然と溶け込めるのは先生のキャラクターだろうな。
女子だけのこの学校で、生徒と釣り合うくらい若い男性の先生といったら、相川先生が真っ先に浮かぶ。誰かと密会をしている様子なんて不似合もいいところだが、先生を見たら噂を思い出してしまい、つい見つめていたようだ。「なんでもありません。先生が部活に顔を出すなんて珍しいから、明日雪が降らなければいいけど、って心配してたんです」
少し離れた場所にいた紅美子さんが声に出して笑う。「まあ。花音も言うようになったね」
自分でも悪びれることなく口にしたのに驚いたけど、先生は許してくれた。「いいんだ、ほんとうのことだからね」
先生は生徒から好かれている。理不尽に怒らないし、筋道立てて話してくれる。そういう大人ってきっと貴重だ。
先生に噂について尋ねたら、どんな反応を見せるだろうか。噂になっている男の人、きっと先生のことですよ、って告げてみたら、どうだろう。それでも先生は笑って許してくれるだろうか。いいんだ、ほんとうのことだからね。
ハッと気づいて、考えごとを頭の中から締め出した。さっきから、あたしはなにに囚われているのかしら。
新しい学年になって、後輩ができて、一か月が経過した。緊張して身構えているうちに、あっという間に数多の出会いは過ぎ去り、今は定着の期間に移行している。数人、ほかの部活に改めた人もいたけれど、それは毎年のこと。現在のメンバーでしばらくは固まるだろう。
そうなると、そろそろ秋の舞台の話が出てくる。今年はどの作品にしようか。はたまた、配役は――。
去年、旭山がオリジナル脚本で挑んだ経緯があるので、こちらもそれを検討しようか、という話も挙がった。ただ、また小百合が書くらしいことをあたしが伝えると、差別化を図る意味でも、うちらは過去の名作を大事に表現する道を選ぼう、と紅美子さんが持論を述べた。みな、その方針に賛成だった。
作品を絞る作業は、部長の紅美子さんと、もう一人三年生の中心人物、堀愛さんが担当する。去年は全体で話し合いの場を設けたが決まらず、結果、この二人といのりさん、かさねさんの四人だけに任せる形になった。船頭が多くても船は山に上るだけ、間違いのない方法かは分からないが、早く決まることは確か。
と思っていたら、先日、あたしとミナちゃん、それに芽瑠は紅美子さんに呼ばれた。
――三人にも、作品の選考を手伝ってほしい。
紅美子さんはさらに、やっぱり、来年のことも踏まえて、後輩が話し合いに噛むべきだと思うの、と付け足した。三人とも、なにも言葉を発せなかった。ただ黙っているしかなかった。どうして、あたしたち三人なんですか? 問いは、泡のように浮かんでは消える。
――あなたたちが一年生で舞台に立てたのは、偶然じゃないと思うよ。
言われた言葉の真意を、あれからずっと考えている。紅美子さんは、いったいなにを……。
分からなくても、断る理由は皆無だった。神妙に頷いて、後日の話し合う機会までに思案してくることとなった。
ミナちゃんも、芽瑠も、どうするのかな。そして、あたしは。あたしがやりたいものを挙げてしまってもよいのだろうか。それとも、紅美子さんや愛さんが主演になると仮定して、見合うものを探すのが正しいのか。
悩ましい。だけど、悩めるってきっといいことだ。あたしはそう捉える。
答えをそこに求めるみたいに、窓の向こうを見やった。木々が風に揺れている。その音は明瞭な声に変わりはしない。――今頃、湖は茜色に美しく染まっているはずだ。
小百合。あなたは今、なにを考えている?
道端に咲く花に気づける心があってよかった。いつも感じる。さりげない存在に光を当てられる、紅美子さんみたいだ――。
紅美子さんは裏方の仕事に興味を持っていて、将来的にも劇団のそういう仕事に関われたら、とずっと公言していた。そんな彼女の姿勢が評価されたからこそ、いのりさんが部長に指名したのだろう。
秋の舞台では、毎年、部長になった人が主演を務める。特に誰も違和感を覚えることなく、伝統の一つとして受け継がれてきた。旭山はそのへんは流動的で、去年だって、葵さんはメインキャストだったものの、主演は瑞希さんだった。だが、翡翠ヶ丘の伝統はあまりに歴史が長い。
ところが、紅美子さんは、自分が主演じゃない方がいいと、話し合いの冒頭で告げた。青天の霹靂。前提から覆された。
――あたしも最後はちゃんと舞台に立つつもりだけど、でも、あたしが主演では華がないと思うの。
そんなことない、と即座に返すのは、かえって嘘くさい気がした。
――それを愛にも伝えたら……。
そこで、愛さんが続きを話す。
――あたし自身も、主演向きじゃないから、って伝えた。どうせなら、あなたたち三人がメインになるストーリーを選んだらいいんじゃないかって、そういう結論に達した。
二人とも簡単に喋っているけれど、きっと、たくさん考えて、それらを言葉にしてきたのではないか。高校生活でたった一度のチャンスを誰かに振れるほど、演劇部の人間は無欲じゃないから。主演っていうものは、すべての人が等しく望む光。
――いいんですか、それで……。
ミナちゃんがか細い声を絞り出した。お二人とも、後悔しませんか?
すると、二人は目を見交わせてから微笑み、揃って首を横に振った。
――いいえ。むしろ、この話が実現しなかったときの方が後悔する。
――あたしたちは見たいのよ、三人が輝いてるところ。
鼻をすする音がして、横を向いたら芽瑠が泣いていた。その赤くなった瞳に映る少女――つまりあたしも、涙をこぼしていた。そして、ミナちゃんも。三人とも嬉しくて、嬉しくて、どうしたらいいのか分からなかった。身に余る、その言葉よりもずっと身に余る。
紅美子さんと愛さんは作品も決めてきていた。はじめから、話し合いという場は、このアイデアを伝えるために設けられていたのだ。
今年の秋の舞台、翡翠ヶ丘高校が披露する作品は、津島佑子『火の山―山猿記』。難しいし、原作はとても長い。どの部分を切り取るのか、そして落としどころをどう見定めるのか、検討する余地は多くある。
だが、話の中心となる三姉妹――笛子、杏子、桜子という名前なのだが――を演じる生徒は決まっている。
「なんだか、とんでもないことになっちゃったね」
隣を歩く芽瑠が夢見心地で呟く。同感だった。「どうしたらいいんだろう、って感じ」
「だけど、さ」
「うん」
がんばらないとね。うん。中途半端なことは絶対にできない。紅美子さんが、愛さんが与えてくれたこの機会、期待以上の内容で応えなければ、自分を許せないだろう。
不安は強い。だけど、あたしは演劇が好きだ。舞台に立ちたい。自分ではない誰かを表現する快感をもう知ってしまったから、それから逃れられない。――小百合に伝えたい。この不安を。この至福を。
「大丈夫、桜子?」
黙りがちになっているあたしの顔を、芽瑠が覗き込んでくる。心配してくれているらしい。芽瑠だって、プレッシャーを感じているはずなのに。――芽瑠の瞳、綺麗だな。
「うん、杏姉ちゃん。ちょっとだけ、不安はあるけど」
三姉妹のうち、あたしが三女の桜子。芽瑠が次女の杏子。長女の笛子を演じるミナちゃんは、今日は三浦のミナちゃんとお泊りすることになっている。一度、ミナちゃん同士でお泊りしてみたかったそうで、その約束を今日していたのだ。
演劇部に入って仲よくなった三人で三姉妹を演じられる――それがなによりも嬉しい。
突然、芽瑠が両手をあたしの頬に当て、笑いかけたかと思うと、瞬きしている隙にぐっと近寄せてきた。芽瑠の息遣いが、あたしの唇にかかる。そして互いの唇は、重なってしまう。
あたりは暗くて、静かで、川のせせらぎが聞こえるばかりだった。そんな風に気にしながら、でも、もしかしたらと考える。もし、こんなところを誰かに見られていたら……どうすればいいの。
軽く触れただけで、芽瑠は唇を離す。今までに感じたこのない感触を残して。芽瑠はまた笑みを作った。
元気、出た?
声が出なかった。感情が定まらなかった。ちゃんと立っていられるのが不思議だった。ふわふわとした心地のまま、だけど芽瑠から目を離せず、ただ頬が熱くなる。なにを言えばいいの。笑えばいいの、泣けばいいの。分からない。
「どうしたの、花音」
仲のいい女の子同士、キスをするなんてふつうでしょう?
川の水音に耳を澄まして、木々の葉の囁き声に答えを求めるようにして。
あたし、たった一人を除いて、ミナちゃんやほかの同級生のことは、ちゃん付けかニックネームで呼んでいるのだけれど、芽瑠だけは最初から「芽瑠」だった。
たった一人、小百合を除いて。
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五月○日
今日から日記をつけてみることにしました。きっかけは、ミナちゃんと話しているとき。ミナちゃんは中学二年生の頃から毎日欠かさず日記をつけているそうです。日記をつけると、後からその日のことを振り返れますし、自分の考えをまとめるのに最適だそうです。やってみたら、と勧められたので、とりあえず一度やってみることにしました。どれくらい続くかは分かりませんが、せめて、三日坊主で終わらなければいいです。
日記を買うのはちょっとだけ難儀しました。文房具も置いている駅前の本屋で探してみたのですが、この時期は置いていないとの話。仕方なく電車で隣町まで行って、そこのデパートで購入しました。種類が豊富で、絵柄がかわいらしいものもあり惹かれましたけど、自分らしいシンプルなものを選びました。けっこう気に入っています。形から入るのは大事です。
演劇部の活動に足しげく通っています。文芸部よりもよく行くので、葵さんみたいに幽霊部員扱いされないか不安です。わたしはちゃんと両立してみせます。
部長の「聖母」こと千穂さんが全部員の前で、劇の脚本は文芸部の二年生、中田小百合さんに今年もお願いします、と話してくれました。事前に打ち合わせもなにもなかったため、その場で恐縮しきりでしたが、これで正式に脚本担当と相成りました。がんばります。
千穂さんは、去年の「海のプレリュード」は好評だったからと言ってくれました。ですが、それはひとえに葵さんと瑞希さんの演技と歌のおかげに違いありません。わたしの拙い作品を、あんなに素敵なものにしてくれたのですから。
去年はあれよあれよという間に当日まで流されていきました。しかし、今年はちゃんと責任を感じる時間があります。その期待に応えたいです。ただ、それだけ。
沼田鈴花。一年生。彼女を意識しない日はありません。
初めて話してみて、その印象が花音と重ならないことに安心している自分がいました。よかった、彼女は花音ではない、と。当たり前なのに。
鈴花は普段は大人しく、自己主張もしない子です。少し、演劇部にいるのが不思議になるくらい。でも、スイッチが入るというか、活動中はしっかり声も出て、動きも機敏です。加えて、物怖じしないタイプらしく、緊張で硬くなる瞬間は見受けられません。
彼女を上手く、劇の中で使いたい。密かに思案しています。
それにしても、見た目はほんとうによく似ています。笑っている顔も、まじめに考えている顔も。
翡翠ヶ丘は今年、どの作品を披露するのでしょう。そろそろ決まるはずです。花音は、どんな役どころになるのでしょうか。気になります。
今日の帰り、ミナちゃんと帰ろうとしたら、塚原のミナちゃんと約束があるからと、行ってしまいました。仕方なく一人で帰っていると、川の向こうに花音を見つけました。その隣には、遠くてもツインテールで分かる、芽瑠ちゃんです。向こうもミナちゃんを奪われたのだと知れました。
手を振ったら気づいてもらえるかな、と手を上げかけましたけど、陽が暮れてきたので見えにくいでしょう。それよりは先に駅に向かって、二人を待っていようと心に決めました。夜空の星を探しながら、さっきよりも早歩きで帰りました。
芽瑠ちゃんは花音とどんな話をしていたのでしょうか。花音と一緒に帰れる彼女が妬ましいです。