恋のインターリュード
幾分、夏の暑さは和らいできて、風に吹かれると心地よさを感じるお昼過ぎ。
駅前で、電話が来るのを今か今かと待っている。快諾してくれたけど、当日になって気が変わっていないか不安になる。信じて待つしかない。来てくれなかったら、一人でこの辺りを散策して帰ろう。
腕時計を見ると、あと数十秒で待ち合わせ時間ちょうどになるところだった。心の中でカウントダウンをし、秒針が真上を差したタイミングでスマートフォンが着信を告げる。待ち合わせ相手からの電話だった。
『もしもし、ホンファです。今着いた』
電話越しに話すのはこれが初めてだったから、少し緊張した。クリアに聞こえるその声は、間違いなく彼女のものだ。
「僕も着いてる。売店の横にいるんだけど……」
休日ということもあって、構内は混雑していた。ようやくお互いを見つけられて、軽く手を振り合う。普段はTシャツとショートパンツ姿のことが多い彼女だけど、この日は紅い花の模様を散らした純白のワンピースを身に纏っていて、心を奪われた。
「どうかした?」
不自然に黙り込んだ僕を訝しく思ったのだろう、首を傾げて目を覗き込んでくる。喉元まで、かわいい、という単語が出かかっていた。目元も口元も色づいている彼女に見惚れていた。だけど、胸の内を衒いなく打ち明けることが自分らしくない気がして、
「ううん、ちゃんと来てくれて嬉しいな、と思って」
と別の言葉を口にした。
「誘ってくれたから、来るよ」
「ありがとう。それじゃ、行こうか」
二人並んで歩き出す。ホンファは慣れていないのか、ヒールの高い靴で歩きづらそうだった。彼女のペースに合わせ、ゆっくり歩いた。
ホンファと出会って、半年ほどになる。彼女の出身は中国だ。会社の近くの中華料理店で日中働いていて、そこは僕の行きつけだった。
ホンファは四川省で生まれ育ち、上海の大学へ行って、そこで日本語学について学んだ。いつか日本で暮らしたい夢があったそうで、中国でいったん就職してお金を稼いだ後、渡日した。今はウェブデザインの専門学校に通いながら、アルバイトで生活費を稼いでいる。
今日は彼女のリクエストで、都内の庭園へと向かっている。前々から行ってみたかったそうだ。
「ホンファは、ほんとに日本語が上手いよね」
「まだまだ。ときどき、分からない言葉もある」
いくら大学で日本語を学んできたとはいえ、異国の地でこれだけ不自由なく駆使できているのは、努力の賜物だろう。真摯な彼女の姿勢にすごく惹かれる。
「最近は、また日本の歴史を勉強している。古い物語も読んで」
「そうなんだ。……『源氏物語』は読んだことある?」
「読んでない。でも、名前は聞いたことある」
「僕は『源氏物語』がとても好きで。全体は長いけど、お話ごとに分かれているから、少しずつ読んでいける。お薦めするよ」
「ふうん、気になる」
ポケットからスマートフォンを取り出し、ある言葉を打って彼女に見せた。「紅花」と「末摘花」。
「ホンファの名前は日本で言うところの紅花(べにばな)。またの名を末摘花とも言って、『源氏』の中には『末摘花』という題のお話があるから、ここから読んでみたらいいんじゃないかな」
こちらのスマートフォンの画面を覗くために顔を近づけてきたホンファは、顔を上げて、「素敵。読んでみたい」と目を輝かせた。髪が流れ、いい香りが鼻孔をくすぐる。
話しているうちに、あっという間に目的地に到着した。高い塀に囲まれ、そこだけ街の喧騒から隔絶されている。風が木々たちを揺らした。
○
会社内には社員食堂が入っているが、外で昼食をとることがほとんどだ。営業に同行する日もあるものの内勤ばかりの毎日で、お昼時くらい外の空気を吸いたい。
ここのところ、週に一度は必ず足を運んでいる中華料理店がある。そのお店は急な石造りの階段を下りた先、あまり規模の大きくない小学校の向かいに店を構えている。メニューの種類が豊富で、値段のわりに量を多めに作ってくれるからコスパがいい。
お店を切り盛りしているのは、なにかと大雑把だけどいつも元気なおばちゃんと、料理を淡々と作っていく無口なおじちゃん。二人とも中国人で、おそらく夫婦と思われる。その二人を手伝っているのがホンファだ。
ホンファの第一印象は肌が白いことと、まめまめしく働いている姿。時折浮かべる笑みが魅力的だった。
一目で強く心惹かれていた。だけど、どうしてこんなに惹かれるのか、自分でも上手く説明がつかなかった。彼女のことを、まだなにも知らないというのに。恋とはこういうものなのだろうか。
お店がだいぶ空いてきたタイミングを見計らって、会計に立った。レジを間に挟んで向かい合う。目が合うと、彼女は目を弧の形に細めてくれた。それが臆病な僕の背中を押した。
――あなたの、名前は?
○
「成都は山がちだから、曇りの日が多い。周りにも肌の白い人は多かったから、そのせいだと思う」
園内は広く、中心部の池はどこからでも見渡すことができた。少し歩いてから四阿を見つけ、そこに並んで腰かける。都会の喧騒をどこか遠くへやってくれるような、静かな時間が流れる。この時間をホンファと共有していることがとても不思議だった。
「山の天気は変わりやすい、と言うね」
「日本に来てから少し日に焼けた気がする。日焼け止め、あまり塗らないから」
不意に、ホンファが両足をぶらぶらさせた。蚊が寄ってきたらしい。僕は虫除けを携帯していないことを後悔した。差し出すものがない代わりに、「そろそろ歩こうか」と、ここを離れる提案をした。
また歩き出す。園内のお客さんはまばらで、移動は好き勝手にできた。ここに足を運ぶのは初めてではないため、記憶の糸を手繰り寄せながら彼女をリードしていった。彼女はポケットからハンカチを取り出し、首筋に薄っすらかいた汗を拭う。ぽつりぽつりと、静かな園内に言葉を落として歩く。この庭園の歴史、できた頃日本がどんな時代だったのか、なんとなく話す。ホンファは故郷にある庭園について、あるいはその街の暮らしなどを教えてくれる。今、僕たちは心地いい時間の漂流者だ。
景勝地をモデルに造られているから、ところどころ起伏がある。見晴らしのいい高台へ続く石段を上がっていった。そっと後ろを振り返ると、ヒールの高い靴を履いた彼女は少し上りづらそうだった。手を取ってあげようとしたが体が上手く動かず、目だけ離さないで、なにかあったらすぐ手を伸ばそうと備えた。
見てもらいたい景色があった。高台からは園内の全景を見渡すことができる。中心部の池や、木々や、小さな滝がそれぞれの瞳に映る。ここにホンファと来ているなんて非日常的なことなのに、心は落ち着いていた。穏やかな風に包まれているからだろうか。
「いい眺め」
ホンファがそう呟いてくれたことに安心し、隣にそっと目を向けた。彼女は真剣な眼差しで遠いところを見つめている。その胸中に萌す感情はいったいなんだろうか。その表情を目の当たりにした瞬間、「末摘花」を女性に薦めたのはあんまりよくなかったかもしれない、と後悔した。
「この国は、昔からの文化を大切にしていて、素晴らしい」
即座に言葉を返す必要はないと、このときは思っていた。
○
ガラス窓から見える通りを、さまざまな人たちが行き交う。ビジネスマンも学生も、確かな目的意識があって生きているように映る。
いつもの中華料理店でぼんやりとしていた。スミマセン、とそれだけ言って、若い男が注文した回鍋肉を置いていく。少し前から働き始めている彼はどうも不器用で、見ているこちらがハラハラする。日本語もまだ不慣れなようだ。
お決まりのメニューを黙々と平らげていきながら、在りし日のホンファを思い返した。彼女はなんの前触れもなく、僕の前から姿を消した。何度か見かけないと思って、でも学校の方が忙しいのかと考えていたら、新しい店員さんが現れたので思い切って訊いてみた。お店のおばちゃんに、若い娘は辞めてしまったのかと。すると、国に帰った、という答え。なんでも、実家に小さくない問題が持ち上がったらしい。詳しい内容は知らなさそうだった。
僕はここで彼女の不在を確かめながら、たくさんの後悔に囚われている。ホンファが、どんな想いであの日の服装や靴を選んで、唇を色づかせて来たというのか。口にした言葉の裏に、どんな感情が孕まれていたというのか。
待ち合わせの場所で開口一番、彼女にかわいい、と言えなかったことをずっと後悔している。
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