花物語
横顔を見つめ、私の胸は少しずつ落ち着かなくなる。
演劇部の部室で、台本の最初のページに目を落としている花音の表情は、どちらかというと無色透明。瞬きの少ない静かな瞳。引き結ばれた唇――なんだか色っぽかった。
台本の最初のページには、今回の劇の配役が列記されている。何度読んでも書かれていることは変わらないのに、花音はいつまでもそこだけを捉えていた。そして、そんな彼女に私はじっと眼差しを向けている。
背中の方から部員たちの声が聞こえ、私は仕方なく部室へ入る。
「花音、おつかれさま」
今気づいた風を装って近寄り、そっと肩に手を置く。
花音が振り向いて、すぐ近くで目が合ったときには、彼女は柔らかい笑みを浮かべていた。さっきまでの表情を遠くへやるように、台本を閉じて机の上に放った。
「おつかれさま。小百合、今回の脚本、すごくいいね」
そんな笑い方してほしくなかった。
* *
どうしようもなく突き動かされることって、誰にでもあると思う。人の心はなんとも不思議で、いたってシンプル。
私は演劇に魅せられ、その世界に憧れてしまった。生半可な道ではないことは入ってすぐに分かったけれど、辞めようと考えたことは露ほどもない。自分が向いているのかどうか、心傾けるように好きになってしまったら、そんなことに思いを馳せる瞬間はなかった。
だけど、今の私にはすべてを前向きに捉えることはできない。思考が停止している。気づいたら、台本を手に持って、配役のある一点だけを見つめていた。主役の欄に記載された「村上柊子」の名前。
敗北感も、寂しさもない。ただ、ぼんやりとしてしまい、静かに忍び寄るのは喪失感。掌の上の砂が、開いていく指の間から徐々に零れ落ちる感覚。
離れたところから部員たちの声が聞こえ、私は我に返った。そして、横目でドアの傍らに立つ小百合を認める。――あの様子からして、ずっとこちらの様子を窺っていたな。
最後の舞台となる文化祭で、主役をやりたかったのはほんとう。小百合には、「やりたい」とは告げなかった。願望じゃない、私は主役になるよ、と。
全力を出し切れた、という達成感があった。去年も主役を務めた、二年生の柊子との一騎打ち。――それでも、結果はだめだった。
みんなには暗い顔を見せたくなかった。同情されてはいけない。劇の本番はこれからなのだから、明るい気持ちで臨みたい。
私が悲しんだら、きっとみんなの同情を買えるだろう。だけれど、そんなものはどうでもよかった。それより、素敵な劇を見せてほしかった。そのためには、柊子にのびのびと演技をしてもらいたかった。
小百合は私を思いやってくれる。弱さを見せたら、必ず慰めてくれる。でも、その空気感を周りに伝播させてはだめだ。すべては劇のため。私が二年半お世話になった部のため。
「花音、おつかれさま」
肩にじんわりと温かい掌の熱を感じる。その手にすがって、彼女の胸に頭を押しつけて、さめざめと泣きたかった。でも、我慢しなければ。
「おつかれさま。小百合、今回の脚本、すごくいいね」
自分の台本を机に放る。読み込みすぎたみたいにしわができていた。裏方だというのに。
小百合に笑いかける。演劇を始めてどれほどになるのだっけ。親友の気持ちを沈ませないくらいには、演技力が身についているといいな。
* *
きっかけは、ありがちな。
幼い頃から読書が好きで、いつからか自分でも話を書いてみるようになった。それを周りの友達に見せて、感想をもらうこともあった。
中学生になって、私はどこの部活にも所属しないでいた。放課後は一人本を読み、たまに何か書く。
――脚本、書いてみない?
そう誘われたことがすべての始まり。中学校の演劇部は部員が数名しかいない、小さなところだった。
それからなんとなく脚本を書き続け、次第に演劇に興味を持つようになり、端役で自分が演技をすることもあった。無様な演技だったけれど、内心けっこう楽しんでいた。
ある日のホームルームでチラシが配られた。私たちの街の小さな劇場に、有名な劇団が来るらしい。絶対に観に行こう。そのとき、迷いのない感情が生まれた。
数日後、寂れた劇場で披露されたチェーホフ原作「桜の園」を目の当たりにし、私は高校へ進学しても演劇を続けようと、脚本を書き続けようと決意する。
この間みたいに、部室のドアの前で足を止めた。中からトーンの低い声が二つ聞こえる。一方は花音、もう一方は――柊子。
気づかれないように、室内を覗き見る。見慣れた花音の後頭部と、横を向いている柊子のすっとした鼻梁。
柊子は一つ下の後輩だけど、小さい頃から劇団に所属していたため、演技経験はずっと豊富。入学したときから注目の的で、私はどんな子なのだろうかと気にしていた。でも、初対面の感想は、思っていたより小柄、ということだった。顔立ちも幼げ。
拍子抜け、とは違うけれど、話してみても、まったく威圧感はない。むしろ、大人しい性格。ほんとうに、彼女がすごい存在なのか、と誰もが感じていたはずだ。
「私、深川先輩と演技したかったです」
前後の文脈は分からないが、柊子がそんなことを言った。
花音が曖昧に笑う気配がした。
「深川先輩だったら、ほかのどの役でも選ばれたと思いますよ。――私、主役に立候補するって、あらかじめ言ってましたよね?」
どういう意味だろう。私は柊子の横顔を凝視する。その表情には邪気のかけらもない。
「そうだね」花音の、今度はちゃんと笑う気配。「勝てないって分かっていたのだから、ほかの役を選ぶべきだったね」
胸をめった刺しにされた心地がした。花音は、どうしてそんな風に明るく振る舞えるの。柊子は、どうしてあんな無遠慮な発言ができるの。
飛び出していって、柊子を叱りつけたってよかった。花音を優しく抱きしめたってよかった。なんとか踏みとどまれたのは、きっと花音はそんなこと望んでいないと分かったから。
指先に痛みを覚える。いつの間にかスカートの端をぎゅっと握りしめていた。
花音と出会ったのは高校生になってから。朝休みの教室で、陽の光を受けて窓際で佇む彼女に見惚れた。肩先にかかる黒髪、笑顔のよく似合う眩しさ。
自然と友達になれ、二年半一緒にがんばってきた。花音のことは、今では誰よりも知っている自信がある。これまでの努力の軌跡も、最後の舞台で主役をどれほど望んでいたかも。
脚本を執筆するとき、主役像に花音を重ねながら書く、なんて真似はしなかった。私情を交えてしまったら、花音は絶対に認めてくれない。ただ、全力で表現するだけ。私の全力に応えてくれるのは花音だけだと信じて。
ごめん。冷ややかな感情が胸中に流れ込んでくる。ごめん、柊子。あなただけは許せない。
* *
芝居の面白さには果てがない。一生かけても味わい尽くせない。
とある作家の言葉。それが念頭にあって、日々実感している。演技には明快な答えがない。歩めども、その世界は果てしなく広がっている。
柊子を初めて見たとき、ほんとに彼女がすごい演じ手なのだろうかと正直疑った。きっと、私だけではない。小百合だって同じだったと思う。だけど、そんな評価は、彼女が舞台に上がった瞬間に一変する。
花が咲いた。鮮やかに、艶やかに、華やかに。舞台に立つと人が変わったようになる、という人はよくいるけど、彼女はそれが際立っていた。
演技の上手さは数値化できないし、精通している人でも評価の仕方に難儀する。なのに、どうして私たちは演技が上手い、下手、と感じるのだろうか。そこには好みや偏見を越えた、目に見えない引力が存在する。
中学生のとき、有名な劇団の「桜の園」を観劇した。学校のホームルームで配布されたチラシがきっかけで。宣伝のためにあちらこちらの学校で配っているらしかった。
あの日の感動を、私は二度と忘れられないだろう。名状しがたい感情の動きに誘われ、あんな風になりたいと強く願った。だから、演劇部の活動が盛んな現在の高校に進学した。
雨の吹き荒れる日だった。
なんとなく気持ちが落ち着かなくて、そわそわしていた。ぼんやりと、窓の向こうの暗い空を眺める。
本番まで一週間ちょっと。柊子を中心に、劇の完成度は上がりつつあった。仕上がりがほんとうに楽しみ。
遠くから誰かの駆ける音を耳にしたかと思うと、慌てた様子で演劇部の一人が入ってきた。私を捉えると、「花音」と頬を上気させて近づいてくる。
何かあったのかしら。なぜだか、嫌な予感しかしない。
「柊子が――」
大怪我をしたって。
どれだけ演技の練習を重ねてきても、このときにどんな感情を表せばいいのか知れない。
傘を差しながら、小百合と並んで下校した。
柊子は屋上へと通じる階段の踊り場で足を滑らせ、転落した。頭をかばおうと変な体勢で受け身を取ってしまったために、足の骨を折った。全治一か月。踊り場は、吹き荒れる雨水が入り込んでいたのか、小さな水たまりができていた。
そして、放課後の部活で信じられない言葉をかけられる。代役は、深川花音。オーディションで主役を演じたのは柊子と、あなたしかいないのだから。
ふいに舞い込んできた僥倖――そう言ってはいけない。だけど、喉から手が出るほどほしかった役が、私のこの手に。与えられた砂は掌に重たかった。こぼさないように、せめて指に力を込める。
「花音、がんばってね」
隣で小百合が複雑に微笑んでいる。
「これでよかったんだよ、きっと。――私、あの子はどうしても気に食わなかったし」
腋の下を嫌な汗が伝った。終日の雨で気温が下がっているからではない。隣で並んで歩く親友が、見たことのない妖しい笑みを浮かべていた。
あなたは、誰。ひょっとして、あなたが――。
しとしととした、静かな雨に変わっていた。二人は斜め上を見つめながら歩いていたけれど、違う空を見ていた。
* *
エピローグ(幕は再び開く)
夏の名残で、朝方でもそこまで冷えない。放送部員の少女たちは学生鞄を背負ったまま、放送室に足を踏み入れる。朝休みのことで部屋の周りは静寂に包まれていた。
「あ、メモがある」
机の上の目立つところには、指示が書かれているメモが置かれている。たいていは、教師から誰々を呼び出してほしい、という依頼。
「じゃあ、私が読むね」
一方の少女がよく透る声でメモ書きを読み上げた。――二年生の村上柊子さん。屋上まで来てください。繰り返します――。
校内にアナウンスされる。静かな校舎ではよく響いた。
「屋上に呼び出すって珍しいね」
「確かに。あ、ほかにもあるみたい」
そう言って、少女はまた別の紙片を拾い上げる。代わって放られた紙は、一度風に乗ってから音もなく机に達した。
外からは激しい雨の気配がする。
屋上へ通じる階段の踊り場は人気がない。暗くてじめじめしているし、屋上へ出たとしても頑丈な金網に囲まれていて、眺めはよくない。人が寄りつかない場所なのだ。
一人の少女が、屋上のドアを開け放って、雨粒が打ちつける様子をじっと見つめていた。しゃがみ込み、両手を頬に当てている彼女の目は何色の表情も映さない。
屋上にバケツを一つ出している。
「溜まったかな」
雨水でいっぱいになったバケツを中へと移した。予想したより重くなっていて、持ち上げるとき小さく声を漏らした。
考え事をしたのは束の間だった。バケツを傾けて、踊り場を少しずつ水浸しにしていく。虚ろな眼差しでその光景を見据える。
一種の賭けだった。リノリウムの床がたくさんの水たまりできらきらしている。
もうすぐ柊子がここへ来る。少女――小百合は水たまりを避けて、階段を降りた。
花音は人がよすぎる。弱い部分を容易に見せない。彼女のそんなところにも、私は惹かれているのだけど。
誰もいない廊下をとぼとぼと歩く。暗い感情で胸いっぱい覆われそうになって、それを払い除けるように台本の台詞を心の内で唱えた。
遠くで悲鳴が聞こえた気がした。鈍い音が、鮮血が、喧騒が遠くで。ずっと遠くで。ここから見えるわけはないのだから、想像の産物に過ぎない。
私はなんてことをしてしまったのだろう。花音が知ったらきっと軽蔑する。私は親友のために、という偽善を振りかざす悪魔だ。
堪え切れず、両膝を床についた。両手で目元を抑えても、涙は次から次へ溢れた。感情が壊れてしまったみたい。
花音。あなたと同じ空を見ていたかった。私は、あなたという花を舞台で咲かせたかった。それだけなのに。
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