いつだってはじめては(十)
いつだって、気づいたら誰かを好きになっている。愛おしく想っている。どうして、どこで、どのようにして、そんな問いは意味を成さない。
私はずっと人に愛される瞬間に疑問を抱いていた。私のどこを愛するに足ると判断してくれたのか、では何を誤ったら愛してくれなくなるのか、ほんとうに分からない。好意を寄せてもらえるのは嬉しいはずなのに、同時にその得体の知れなさに戸惑う。
だけど、逆は違う。私から愛すときは、その確信に心当たりがある。虚飾もなく、揺るぎもない愛情が胸のうちに宿って、その火は容易に吹き消されない。だから、誰かを愛するときにはじめて、わたしを愛してほしいという望みが湧く。得体が知れたらそれに越したことはないけれど、ただ報われたいとまず感じる。
いつだってはじめては、こうして訪れる。
文化祭の数日前に冊子が完成した。サークル員と歓声を上げながら手に取り、眺めた。何よりも自分の作品を。
掲載される形になると、なんだか、ほんとに自分が書いたのか不思議に思う。もう二度と同じようには書けない、私の中の私。繰り返される、感情を表現する言葉たち。
シチュエーションや会話のやりとりなど、私と名波の関係性をそのまま表している。余人はいざ知らず、彼は読んだらすぐに気づくだろう。ここで描かれているのは自分と、田島京の話だ、と。読んでみたいなと言われた瞬間から、洗いざらいぶちまける覚悟がきっとできていた。その先に決定的な出来事が待っているとしても。
冊子を閉じ、その表紙を撫でる。無機質な感触が肌を滑って、私は恍惚と息を吐く。
最寄り駅を出たときから周囲の喧騒が届いてきた。ざわざわと、弾んだ声。大学に行くまでの歩道がたくさんの人で埋め尽くされている。ずっと向こうまで、見えるのは人の頭、頭。
大学の規模が大きいことも相まって、文化祭に来場する一般客はとても多い。手垢のついていない学生たちの個性、文化を感じ取ろうと。あるいは、偶然の出会いを求めて。なんの意図もなく、楽しそうなものに惹かれて。とにかく、キャンパスは普段の表情を一変させ、とても自分のホームグラウンドとは思えない。
この日に合わせて製作した冊子を販売するため、ブースを設けて売り込まなければならない。売り子はサークル員でシフトを組んで、数人体制で乗り切る。私は日頃の活動にあまり参加していなかったこともあって、ブースにいる時間はわずか。わずかだろうと、自分の作品が載っているものがどんな人たちに購入されていくのか、この目で確かめたい。
そして、その時間帯に名波が来てくれたら。そう望む一方、でもどんな顔をすればいいのか分からないから、やはり来てほしくないとも。
栞も所属しているサークルが出す評論集を販売している。空き時間になったら遊びにいくつもりだ。そういえば、彼女も文章を書いているのか。長いものを読む機会に恵まれないから、どんな感じなのか気になる。
あれこれ考えを巡らせて、落ち着かない周囲の雰囲気を遠ざけようとする。
平素は講義などに使われる教室の一角をブースとしてあてがわれる。広い教室内にほかの文芸サークルとともに入って、お客さんが来るのを待ち構える。ちなみに栞のところは別の教室。
待ち構えるとはいえ、しばらくは手持ち無沙汰な状態が続いた。バイトの忙しさに慣れたからなおさらだ。そうそう、飛ぶように売れるわけがない。たまに思い出したようにして捌くだけ。それでも、誰かに手に取ってもらえるのは嬉しいこと。
もうすぐ交代の時間という段になって、栞がひょっこりと顔を出した。私を見つけて、花が咲いたような笑みを浮かべる。
「京、来たよ」
「栞、ありがとう」
机の上に積まれた冊子をそっと持ち上げる。
「この中に京の小説が?」
「うん、まあ、一応」
一応も何もないのだけれど、目を輝かして訊かれ、ちょっと気恥ずかしくなる。
「すごいなー。京が話を書くなんて久しぶりだよね」
中学の文化祭を思い出す、と栞は続けた。考えることは同じだ。
パラパラとめくって、真ん中あたりで手が止まる。さっそく私の作品を読んでいるのだろう。目の前で読まれるなんて照れ臭くてしょうがない。
しかし、微笑んでいた栞の表情が硬くなった気がした。目を見開いて、唇を引き結んでいる。真剣に読み進めているというよりも、何かを怪訝に感じているような――。
「栞――?」
声をかけると、さっきまでの硬さをどこかへやるように白い歯を見せる。
「あとで、ゆっくり読ませてもらうね。一冊ください」
「――うん、ありがとう」
お金の受け渡しを終えると、またね、と呟いて、栞はいなくなってしまう。なんとなくよそよそしい気がした――杞憂ならいいけれど。
結局、私がブースにいる間に名波は姿を現さなかった。
雲行きが怪しくなっていた。もしかしたら一雨降るかもしれない。せっかくの文化祭に文字通り水を差す。
晴れているうちにと、ブースから解放されてすぐに栞たちのいる教室を目指す。黙々と人の波を泳いでいく。みんな、ほんとに幸せそうだ。楽しむべきときに楽しむ術を知っている、その表情。
中学と大学では文化祭の色が当然異なる。中学校ではクラス単位で取り組むことをほぼ強制されるけど、大学では基本的に自由。サークルや部に所属していない人たちは参加せず、むしろ連休を利用して小旅行を企てる。
そんな風に方向性が一致しているとは言えないのに、お祭りとして盛り上がるのは、大多数が楽しみたい、充実した時間を送りたい、という共通の願いを抱いているため。大学生活をよいものにするのは、それぞれの匙加減次第。
桜を主演に据え、劇をやったあの頃。完成に向かっていくあの過程が何よりも至福で、だけど、今の私は少し孤独。栞と同じサークルにすればよかったのかな、と一抹の後悔。
その数か月後、桜は転校することになってしまったから、彼女に主演をお願いして正解だった。三人で忘れられない思い出を作れて、心からよかったと思える。
目的地が近づいてきて、私の足は止まった。廊下の端で名波を見かけた。誰かと話している。少し離れたところから様子を見ることにした。彼の眼差しは愛おしむように細められている。
誰かと話している――ほんとうは嫌でもそれが誰か分かっていた。信じたくなかっただけ。だって、あんなに目立つ三つ編みは栞以外にありえない。
名波と栞が見つめ合って、ずっと話し込んでいる。彼らは知り合いだったのか。唇のその動きを頭の中でトレースしても、具体的に会話の内容を思い描くことはできない。だが、具体的でなくたって、彼らがとても親密な関係だということは感じ取れる。名波があんなに眩しい笑みを見せている。栞が――女の顔をしている。
私は栞のすべてを知っていると思っていた。出会ってから、些細なことまで共有し、共有できるくらいいつでも傍にいた。純粋で、まっすぐに生きていて、誰よりもかわいい栞。腰まで伸びた黒髪を、毎日丁寧に編んでくる栞。控えめで、でも本のことになると少し饒舌になる栞。
知っていると思い込んでいただけだったのだろうか。話している相手が名波でなければ、この状況は喜べたのかもしれない。教室の隅で俯いていた栞が、恋を覚えたのだと。そう、名波でなければ。
彼がさりげない動作で栞を抱き寄せる。甘えるように、見上げる栞の横顔。綺麗だな、と思ってしまった。
――ごめんね、京。黙っていて、ごめんね。
肩に凭れかかる刹那、彼女の髪が私の二の腕に触れた。かすかにこぼした言葉とともに、そのくすぐったい感触と匂いを想起する。
早く、雨が降ればいいのに。見たくないものを目の当たりにしたときにそう願ってしまうのはありきたりだろうか。
曇り空をねめつけても天候は変わらない。
*
厳しい寒さを越えたとはいえ、まだまだマフラーが手放せない。お気に入りのそれを首に巻いて外に出る。吐く息はもう白くない。
いい思い出の方が多かった一年がもうすぐ終わり、わたしは二年生になる。そのときには、桜は遠い場所で新しい生活をスタートさせている。ふわふわとしていて、現実味がない。
転校する、と聞いて。東南アジアのある国に行く、と聞いて。具体的な話を耳にすればするほど、むしろ現実から離れてしまう感覚。桜とはほんとうにお別れなのだろうか。
道に沿って並ぶ桜の木を見上げる。アスファルトの照り返しを受ける木々たちの指先はまだ蕾。もう少し暖かくなったら咲くはず。
歩いていくうちに小さい公園が見えてくる。キイ、キイ、とブランコの揺れる音がした。足元を見つめて暗い横顔をしているのは、京。――その表情を目の当たりにして確信が舞い降りる。やはり、桜はいなくなってしまうのだ。
「京、早いね」
声をかけると、こちらを向いた。表情を柔らかくする。髪がいつもより乱れていた。
「栞こそ」
三人で、今日はお別れをすることにしていた。公園で待ち合わせ、好きなだけいろんなところに遊びにいくつもりだ。だけど、こんな雰囲気で大丈夫だろうか。
まだまだ子どもなのかもしれない。一番寂しいのは桜に決まっているのに、笑顔で送り出してやる心の強さがない。
「成績、どうだった?」
なんでもいいからと、関係のないことを尋ねる。
「あんまりよくなかった」
「そっか。わたしもそんなに」
「…………」
「最近、何かおもしろいの読んだ? わたしは『鼓笛のかなた』っていうのを読んでる」
「…………」
京はまた俯いてしまう。キイ、キイ。ブランコの立てる音だけが響く。
冷たい風が身に沁みる。きっと、このまま春は訪れない。桜の咲く季節は迎えられない。
「栞」
聞き取れないくらい小さな声で、でも、ちゃんとそれを拾う。
「うん」
「桜がいなくなるのに、寂しくないの?」
改めて言葉にされると、それは胸が張り裂けそうになる事実だった。それでも、涙をぐっと我慢する。だって、そうしないとすでに泣いている京を慰められないから。
「寂しいに決まってるよ。寂しくて、もう嫌になってしまう」
だけど、とそっと京を抱き締める。ちょっとだけ、夏の海の日のことを思い出した。
「だけど、二度と会えないわけじゃない。いつかまた、絶対に再会できるから。それまでの、少し長いお別れ」
京が、わたしの肩で泣いている。見た目は大人びているけど、内面は悩みすぎてしまうところもあって、こうして誰かのために涙を流せる。誰よりも、女の子。
「そうだよ」
背中側から透き通るような声がして、首だけそちらを振り向く。桜が普段と変わらない笑みを浮かべて、わたしたちをじっと見つめていた。
「桜……」
「もう、遊びにいく前にそんなに泣いちゃって。どんなテンションで過ごせばいいのよ」
そう苦笑する桜の顔にも、光るものが混じっている。「また会えるって。約束する。同じ地球上にいるんだし。飛行機だったらすぐだよ」
だから泣かないで、京。笑ってよ、栞。
大丈夫。わたしは頷く。どんなにつらい冬でも、やがては春にバトンタッチするように。蕾から淡いピンク色の花が咲くように。
静かな公園で、わたしたちは再会を誓った。
約束、したのに。
泣かずに、笑顔で指切りをしたのに。
それから二年半が経過した頃、桜の行った国で大変なことが起こった。連日、ニュースや新聞で「市民が暴徒化」「軍事クーデター」などの字が躍る。でも、どんな事実も記憶していない。何よりもただ、桜が案じられた。
一度、嫌な夢を見た。
全体の構造を把握するのが大変なほどの広さを有する学校の内部、わたしは一人で歩いている。何か目的があるような足取りだけど、さっきから同じところをぐるぐると回っている気がする。エスカレーターで上の階まで行ったかと思うと、また下の階へ。
大きな窓から差し込む光が柔らかい。ほんのりと、校内を照らし出している。綺麗な情景だなとうっとりしていると、ふいに自分の右手に確かな感触を覚える。誰かと手を絡ませている。恋人同士のような繋ぎ方をして。腕の先を目の端で捉えようとすると、どうしてか顔がよく見えない。でも、体つきから、掌の厚さから、男の人だということだけは分かる。
わたしたちは逃げた。途方もない何かから。校内を、周囲の目も憚らずに走って逃げた。腋にじっとりと嫌な汗をかいていた。今この瞬間、わたしは悲劇のヒロイン。
視界が開けた。広い場所に出る。あちこちに談笑する若者がいた。やっぱり、ここは広くて大きなわたしの通う学校だ。空が見える。さっきからの柔らかい光は嘘ではなかったのだ。
男の腕に促されるようにして、あるいは自らの意思で、わたしたちは建物と建物の間の細い道に滑り込む。それでも、まだ追っ手をまけていない。よく見ると、建物の壁面にはいくつもの穴が穿たれ、人が入れるようになっている。わたしは咄嗟に潜り込んだ。その瞬間、それぞれの意思が反したのだろうか、繋がれていた手が離れる。彼だけは、そのまま走って奥の湖へ向かう。
わたしは急いでそこにあった毛布をかぶり、全身を覆った。息を殺してわたしを不安にする恐怖が通過するのを待つ。
声がした。「こっちだ!」気づかれてしまっただろうか。続けて、「ここだな」という話し声がすぐ近くでする。一巻の終わりだと思ったと同時に、細長い棒状のもので突かれ――禍々しい黒い銃口を向けられる。
不運にも混乱に巻き込まれ、桜はわたしたちとの約束を守らなかった。