知音
うなじのあたりから、腹や、乳房まで、先生は丹念に舐めてゆく。舌先が乳房の先端に触れたとき、私が小さく震えたら、先生はくすぐったそうに笑った。最後には顔にもその舌先は柔らかく触れ、やがて口の中へと侵入してきて、互いの舌がいやらしく絡み合う。上手く呼吸ができなくて、覚えず、喘いでしまう。
先生は平素の挙措動作から意外に思えるほど、執拗なまでに身体をいたぶり、大きくない掌で恥所を愛撫する。優しくしてほしいと前置きしてしまったがためにそうしてくれているのだとしたら、失敗だったかもしれない。もっと激しくされたって、ほんとうはよかった。そう、頭の片隅で考えているくせして、外堀を埋める先生の手管に、私の膣は淫らに濡れている。
気持ちがいい。いつまでもこの快感の只中に浸かっていたい。だけれど、私たちはどうにもならない関係だ。余人に知られたら明日はないだろう。
初音の面差しが過ぎった。初音は近々水揚げになるという。それも財界のやり手だそうだから、上手く掴まえたものだ。雛妓の頃から一緒で、一本立ちする際もほぼ同時期だったにも関わらず、私と初音には大きな差が存在した。容姿の面でも、愛想や、なにげない受け答えや、果ては芸妓としての素養まで――。
私と初音、どちらが幸せなのだろうと思い巡らしそうになって、しかしその刹那、先生の陰茎が恥所を貫く。電気が走ったようなその動作に、あらゆる煩悶はすべてどうでもいいものに変わって、一つのことしか思えなくなる。先生と一つになれている今があれば、もうほかになにもいらない。
*
宮城の外堀に沿ってゆっくり歩いていると、花街の賑わいと温かな灯の明かりが近づいてきた。今宵もまた長い一夜が始まる。芸妓になってこの方、生活の中心はすっかり日が暮れてより先に変わった。雛妓だった頃は陽の出ているうちに長唄や三味線、茶道などの稽古をつけてもらわなければいけなくて、今くらいの刻限になるとすっかり心身ともに疲れ切っていた。現在でも稽古をつけてもらう機会はあるけれど、そう頻繁ではない。
一人前になれたのかどうかは分からない。実感が湧かない。たまにお座敷に呼ばれることはあっても、あたふたとしている間に過ぎてゆく。むしろ、お茶を挽いている夜の方が多いかもしれない。そうは認めたくないけど。
今日も太陽が真上に来る前には起き出し、姐さんに稽古をつけてもらい、髪結所に行き、白粉と着物で美しく着飾ってみたけれど、果たしてここまでしたことが無駄にならないか、どうか。じりじりとお呼びがかかるのを、何食わぬ顔をして待つ。初音はきっとこんな思い、味わった憶えすらないだろう。
――私たちは姉妹みたいなものよね、海音。
同じくらいの年頃のときに、親に身を売られ、その日から花柳界で生きてゆくことを余儀なくされた私たち。初音はしばしば、身寄りの少ない互いを姉妹と称したがったが、私にはそれは少し荷が勝ち過ぎていた。なんの因果かよく引き合いに出される二人の一方は容姿に恵まれ、また愛想がよく、誰からも愛された。片やもう一方はそのことに物心ついた頃から引け目を感じ、自然、不愛想になってしまい、「まったく……」とため息まじりに難じられる。
嫉妬、ともまた違う感情。だって、私は自分自身に期待することを疾うに諦めているから。冷め切った心を気取って、だけど、そこには寂しさの隙間風が吹き抜ける。
夜もだいぶ更けていた。そろそろ床に身を横たえたいほどだと思っていたら、不意にお呼びがかかった。心の準備をしていなかったから慌てて立ち上がると、山田屋さんよ、と場所を告げられ、それだけで誰が呼んだのか察しがついてしまった。こみ上げてくる喜びをなるべく表情に出さないように気をつけて、私は俥上の人となった。
山田屋は一応料亭として看板を掲げているけれど、その内実はちんまりとした建物があるばかりで、派手に騒ぎたい人が用いる店ではない。その分だけ安上がりではある。そこをいつも使うのは先生くらいで、小説家という職業はあまり稼ぎのいいものじゃないと知れる。
稼ぎのそう多くないのに芸者遊びをしたがるのはほとんどが役者で、作家先生、というのは珍しくてほかに聞いたことがない。初めて先生から呼ばれ、小さな部屋に赴いたとき、だからかなり戸惑った。どうして派手に騒げないくせに芸妓を――それがまたどうして私なのか。どうやら小説家は珍奇な人間がなるものらしいと、認識を新たにした。
だけど、私は嬉しかった。往来で見かけた折に一目惚れしたのだと言われ、今もこうして置屋を通して会う場所を設けてくれる。そこに密やかな愛を見出さずして、どこで見つけることが叶うだろう。
――市川染吉という名前を聞いたことはないか。
――いいえ、初めてお聞きしました。
――そうか、いくつか小説を世に送り出した気になっていたが、花街にまでは届いていなかったのだな。
私は文盲でそれらに興味はあっても、なかなか読んでみることはできない。雛妓の頃は初音に音読してもらったけれど、今はすっかり売れっ妓だから頼めまい。まして市川染吉の小説を読んでくれないか、なんて言ったら、仲を疑われかねない。先生はいったいどんな小説を書くのだろう。少しでも私とのこの逢瀬が影響を及ぼしているのかしら。それは思い上がりも甚だしいだろうか。
山田屋の小部屋をそっと開く。幇間も立方も地方もいなく、お酒があるばかりの寂しい席。すみません、お待たせしました、と形ばかり三つ指ついて謝ると、先生は鷹揚に笑って、よく来てくれたな、といつもみたいに優しい声をかけてくれた。
先生に私の借金のすべてを負わせることは不可能だ。だからこれはもしかしたら、報われることのない、路傍の花と変わらぬ恋なのかもしれない。
その日の夜、私は先生に初めて抱かれた。
股の間がいやらしく濡れて、私は覚えず、手を伸ばしてそこを隠すようにしてしまう。先生は私の掌をやんわりと外して、指先で精液を掬い取る。匂いを嗅いで首を傾げてから、それを舌先で引き取ってごくりと喉を鳴らす。もっと、という声なき声が聞こえる気がした。愛情の形を見せてあげたい。
薄汚い畳の上で組み敷かれながら、燈明が明滅するみたいに脳裏にちらついたのは初音の顔だった。裕福な旦那に見出してもらった初音は、あんなじいさんとこいうことをするのだろうか。男性の陰茎はある程度歳を取っても屹立してくれるものなのかしら。もしかしたら、ちょっとやそっとじゃ勃起しなくて変に苦労させられるのかもしれない。
それとも、大切にされ、玉のように守られる生活を送り、結果として男を知らずに生涯を終える場合も考えられるのだろうか。いくら思い巡らしても尽きない。ほんとうに、どちらが幸福なのか判じえない。
先生の瞳に私はどう映っている。初音はそりゃ肌理の細かい柔肌で、ついうっとりと見惚れたものだ。髪も黒髪が豊かで、島田がよく似合う。乳房も美しいお椀の形をしていて、幼子のように顔を埋めて甘えてみたいとどれほど望んだか。初音はどんな声を上げるのだろう。――刹那、先生の乱暴な動作で漏らしてしまった喘ぐ声が、わずかな時間差で、頭の中で初音の声と重なる。愛情の高まりによってもたらされる声はなによりいやらしく、おぞましく、醜くて、だけれどその分だけとても満ち足りている。
「……先生はどんな小説をお書きになるの」
果てて、互いに身を横たえながら、宵闇に紛れるような小声で言葉を交わし合った。稽古をつけてもらっていた昼日中も、後朝に帰り着く置屋もなく、今、世界はここだけで完結している。誰の介在も許さない。
「プラトニックな恋愛ものだよ」
「プラなんとかって、なんですの」
「プラトニック。僕たちみたいな関係のことさ」
「先生の小説に芸妓は出るの」
「まだ書いてみたことはないな。君を書いてあげようか」
「私なんかより、もっと美人で、愛想のいい芸妓を知っていますよ」
先生は悪戯っぽく笑ってからひょいと手を伸ばして、私の頬に軽く触れた。「海音が一番だよ」初音を知っているのだろうか。知らないからそんな台詞を口にできる。
この恋はどうにもならない袋小路だ。私にはきっと旦那がつかない。再三、再四、胸の内で確かめてきた思いだけど、ほんとうのほんとうは初音が妬ましくてしょうがない。彼女を諦めきれない。私は同じ土俵に立つことも叶わずに、ありふれた芸妓の一人として夜の街に埋もれてゆくのだ。
――海音。
焼き付いている初音の笑った顔、私を呼ぶ声。その幻が、体の内側を貫く快感のせいでかき消える。遠くから三味線の音が聞こえた。酔った誰かが調子外れな歌声で口ずさんでいる、近頃の流行歌。
いのち短し 恋せよ少女
朱き唇 褪せぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを……