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いつだってはじめては(九)

 落ち着かない。さっきからベッドの上に横たわって、とりとめのない考えに忙しい。
 家に帰ってからも原稿の執筆をしている。薄ぼんやりとあった話の構想は、名波に楽しみにされてしまったことで白紙に戻った。どんな展開にしたらいいのか分からない。
 はあ、とため息を漏らして、白い天井を見上げる。ずっと見上げていてもそこにアイデアが浮かんでいるわけではない。こんなに書けなくなるなんて。
 体を横たえて、ベッドの脇の本棚を捉える。順番にタイトルと著者名を眺め、たまに呟いていく。それぞれにどんな内容だったか、特に印象的な場面を思い出し、さらに読んでいた時期のことを思い出す。読書は私の生活に寄り添ってきたものだ。忙しかったときに読んだのと、時間を持て余しているときに読んだのでは手応えが違う。だからきっと、どんな作品も読み返してみると大なり小なりその姿を変える。
 それを踏まえると、私自身が書く話についても言えるのではないかな。人間は何かを受容していく一方で忘却する生き物だから、そのときにしか表現できない感覚がある。中学で栞とともに作った脚本は、どんなに稚拙なストーリーでも、あの瞬間にしか存在しなかった個性が宿っていた。同じテーマで、同じ起承転結で再び書いてみても、もう二度と同じ作品にはならない。
 私は名波を思い浮かべると、どうしてこんなに胸がもやもやとするのだろう。動悸、とも異なるこの感情。
 彼の唇を脳裏に浮かべ、目を瞑り、自分の唇を意識してみる。とくん、と感じる。見えない何かが流れるような刹那。自分の乳房に手を当て、股の間に手を伸ばす。じんわりと濡れていく。
 そのときにしか、ないもの。そのときそれぞれの、私。
 どんな展開にするか悩むよりも、今抱えている感情をただ書き連ねてみようかな。内側に居座るそれらを言葉にすることが、きっと、今の私には必要なはず。

 来月いっぱいで和宮さんがバイトを辞める、と聞いたのはそれから幾日か過ぎた頃だった。本人から直接、ではなく、カウンターに入っているときに吉屋さんに教えてもらった。
「ほんとうに?」
 彼女はかなり長くここで勤めている。遅番の大黒柱だし、いなくなってしまうのは痛手だろう。
 その日、和宮さんは休みだった。ちらりと、カウンターを離れて書棚の整理をしている高橋さんに目をやる。これからは高橋さんが柱か。
「らしいですよ。内田さんが言ってたので」
 内田さんは頭が切れて頼りになる社員さんだけれど、こういうことを容易に漏らしてしまう傾向がある。和宮さん本人は自分の口から伝えたかったのではないかな。それとも、何かしら察したのか。
「じゃあ、ほんとうなんでしょうね」
 バイトを始めてから半年、ようやく慣れてきたとはいえ、まだまだ余裕はない。だけど、これからを見据えると気づく。高橋さんだってずっと続けられはしない、いつかは辞める。そうなると、私や栞、檀さんが徐々に売り場の中心を担っていく。そんな日を迎えられるほどの覚悟は毛頭ない。
 甘えられるうちに覚悟しとかないと。はじめて働かせてもらっているところだから、できるだけ長く続けるつもりだし。
 その後、忙しい時間帯に入った。レジ打ち、お問い合わせの対応、電話と、こなしている間に閉店時間になった。吉屋さんとぜんぜん話せないまま、明日発売の雑誌を並べ、売り場を後にする。

 女子は二人だけだったから、更衣室で着替え、一緒に帰ることにした。また和宮さんの話をするのかと思っていたら、彼女から予想外のことを尋ねられた。
「田島さん、付き合っている人とかいるんですか?」
 彼氏。恋人。私は束の間考える――までもなかった。いない。
「いないよ」
 首を横に振ると、「え、意外ですね」と驚かれる。その反応はありがたいけれど。
「田島さん、もてそうなのに」
「そんなことないよ」
「でも、大学で言い寄られてる田島さんの姿が目に浮かびますよ」
 一瞬、同じサークルの津村純平を思い出したけど、「ぜんぜん、そんな状況になったことないよ」と否定する。
 そういえば、彼は掛け持ちしている軽音楽サークルの方が忙しいらしく、文化祭に向けた作品は諦めるという。どんなものを書くのか興味はないけど。
「吉屋さんこそ、いい話はないの? それとも、もう恋人がいたりして」
 吉屋さんは大げさなくらい首を横に振る。
「いないです! ソフトボールばかりの日々なんで、もうボールが恋人みたいなもんです」
 否定の仕方がかわいくて、思わず笑ってしまった。こういう、衒いのないかわいさは男心を掴むと思うけどな。
 駅が近づくにつれ、人通りも増してきた。雑踏を縫って進む。
「――もてそうですよね」
 何か言われたようだったが、周りの声にかき消されて聞き取れなかった。
「今、なんて?」
「いえ、なんとなく思ったんですけど――東海林さん、すごくもてそうな気がするな、って」
 腰まで達する三つ編みのお下げ髪に、幼げな瞳。栞、か――浮いた話は一切聞かないけど。
「どうして?」
「なんというか、私の勝手な妄想も交じってるかもしれないんですけど、東海林さんみたいに、自分のかわいさを自覚してないタイプって、けっこう男子に人気がありそうな気がして」
 本人には言わないでください、と間に挟む。
 自分のかわいさを自覚してない、というのは、そのとおりだろう。栞はたぶん、自分の魅力に気づいていない。でも、それがかえって異性の心を惹く場合もある。
「だって、東海林さん、かわいいじゃないですか。よく見なくても。髪は長くて綺麗だし、背が小さくて、控えめだし」
「私もそう思う」
 昔から感じていた。図書室で出会って、いつも一緒にいるようになってから、ずっと。
「栞の純粋でまっすぐなところが、私は好きだな」
 すると、隣で吉屋さんが言葉を失っている。誤解を与えないように、「友達としてね」と付け加える。
 栞はかけがえのない親友だ。これからもそうであってほしい。
 改札の前で別々になる。おつかれさま、と言おうとして、そういえば、と彼女が何か思い出した顔をする。
「小早川さん、ご結婚するそうですよ。近いうちに」
 これも内田さんに聞いたんですけどね、と破顔する。まったく、あの人ときたら。
 売り場ではいつも厳しい小早川さんを思い浮かべる。彼女でも、好きな人の前では表情を和らげるのだろう。勝手な妄想に過ぎないけれど。
「じゃあ、来月は和宮さんの送別会と、小早川さんのお祝いをしないとね」
「そうですね!」
 改めて、おつかれさま、と別れる。
 少し歩いて、プラットホームまで向かう。夜でも大勢の人が利用するこの駅は、どうにも騒がしい。楽しげな笑い声と、厭わしいお酒の匂いがそこここからする。
 ふと、反対側のホームを捉える。仲睦まじげな若い男女が、親密度を確かめるように身を寄せ合っていた。――知っている顔ぶれかもしれない。一瞬、そんな風に感じた。でも、音とともに滑り込んできた電車によって遮られ、確認する機会を失う。
 気のせいだろう。そんなことに執着しても仕方がないと、鞄の中から文庫本を取り出す。
 月の綺麗な夜だった。

 文化祭まで数週間あまり。締め切りに少し遅れて、新作が完成した。
 若い女子学生が、同い年の男子に恋をする話。ただひたすらに心の動きを追っていて、たいして山場はなく、尺も短い。それでも、今の私が書ける、世界に一つだけの作品。
 女子学生が想いを寄せる男子は、名波をイメージして描いた。

          *

 初冬の昼下がり、華胥の夢をむさぼっていた。意識がまだはっきりしないまま、辺りに目を凝らす。いつもの自分の部屋。寂しいくらいに整頓されている。
 読みかけの歴史小説を手に取ろうとして、その近くにあった台本が目につく。文化祭の劇で用いられた、あの台本。わたしたちがはじめて形として残した、作品。
 本番は大盛況だった。桜の演技が評判を呼び、一時は入場制限をかけなければならないほどの賑わいに。嬉しい悲鳴を上げているうちに、文化祭は気づいたら終わっていた。
 ――桜、栞。
 京の感極まった声が甦る。
 ――協力してくれて、ほんとうにありがとう。
 消えそうな声と潤んだ瞳。彼女は、この劇を作り上げたいと心から望んでいたのだな。
 ――楽しかったよ。
 ことさら明るく、桜が答える。
 ――わたしも。
 そして、三人でぎゅっと抱き合った。
 それから、また数週間が経過。季節は冬に片足を突っ込み、防寒具を身に着け登校する人たちもちらほら。その頃になると、わたしたちの学校では次の行事が待ち構えていた。とはいえ、文化祭に比べたらとても地味なそれだけれど。
 台本にうっとりと視線を注いでから、改めて脇に置かれた本に手を伸ばす。今読んでいるのは、古代中国の歴史小説。難しい言葉もあるけど、スケールの大きさにとにかく圧倒されている。
 外は寒風が吹きすさんでいた。

「春すぎて 夏来にけらし 白妙の」
 札に手を被せる。周りからも、床を叩く音がする。この歌を覚えている人は多いみたい。
「衣ほすてふ 天の香具山」
 校内の和室で百人一首の練習に励んでいた。この学校では、毎年クラス対抗の百人一首大会が行われる。昔の文化を知ってほしい、そんな意図も見え隠れ。
 体育祭や文化祭に比べると、みんながみんな、やる気を持って臨むわけではない。わたしはけっこう好きだけどな。
 先生が読み上げ、それに反応して札に手を伸ばす。いくつかのグループに自由に分かれ、真剣さと気ままさを併せた雰囲気がそこにあった。
 わたしは京、桜と一緒に札を囲んでいる。安定のメンバーだ。周囲からすると、真剣にというか、静寂としている。わたしと京がかなりいい勝負で、桜は基本的に大人しく座っているだけ。たまに知っている歌が読まれると、勢いよく飛び出す。その瞬間に限り、静寂が破られる。
 一通り読み上げられ、休憩に入る。
 桜が足を伸ばして、ふう、と息を吐く。
「二人とも強いね。覚えてる歌が多い」
「覚えるの、楽しくない? それぞれの歌に、いろんな意味が込められていて」
 わたしが力説すると、桜は納得したように頷く。
「栞は好きそう、そういうの」
「好きな歌を見つけると、より覚えるのが楽しくなると思うよ」
 京も同調する。
「京はどの歌が好きなの?」
 うーん、と京は足下の札を眺める。そして、そこから一枚を選び出した。
「わたしは、これかな」
 小野小町の「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身よにふる ながめせしまに」。世にも有名なもの。色褪せた花の色と、自らの美しさの衰えを重ね合わせた歌。
「まだ若いのに、共感できるの?」
「共感するわけじゃないけど。でも、こういう感覚って現代の女性にも通じるな、と思って」
 なるほど。噛み締めていると、栞は? と訊かれる。わたしは――
「わたしは、これが好き」
 同じように、札を見つけて示す。清少納言の「夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」
「ふうん、意外」
 京は目を丸くする。
「そう?」
「だって、けっこう強気じゃない? 栞のイメージとはちょっと違うかも」
「まあ、確かに。でも、この歌って中国の故事と照応していて、そういう知識が即座に出てくる清少納言に憧れる。だから、好き」
「そっか」
 桜は、と尋ねようとしてぎょっとする。さっきから静かにしていると思ったら、顔を俯けて、唇を引き結んでいた。まるで、涙を堪えているかのように。
 京もそれに気づいたようだ。わたしと視線を交わしてから、「桜、どうしたの?」と優しく話しかける。
 しかし、何も答えが返ってこない。その代わりか、桜は一枚の札を抜き取って、わたしたちの前に差し出した。それは、阿倍仲麻呂の「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」。唐に行った作者の、故郷への思いが詰まっている。
「すごく、楽しいなって思って」
 ようやく、桜が話し出した。
「こうして、三人でいられる時間が素敵だなって、ほんとにそう思って」
 今のわたしが選ぶなら、この歌かな、と桜は続ける。なぜかしら、「今」に力がこもっていたような気がする。
「こんなタイミングで言うのもおかしな話なんだけど、でも、どうせいつか伝えなきゃいけないから」
 彼女は何を明かそうとしているのか。わたしたちだけが見えない膜に覆われたように、周囲との時間の流れに差が生じる。
「わたし、転校することになった。それも、海外に」
 練習を再開しますよ、先生の声が聞こえる。みんなが動き出す気配がする。札を並べ直し、合間には関係のない話をして。
 桜の言葉の意味をすぐには理解できなくて、わたしは少しも動けなかった。京も同じように戸惑っているのか、押し黙っている。
 この先もずっと変わらないと信じていた。そんなはずないのに。そうだとしても、こんなにも突然に訪れる別れは、予想していなかった。
 ようやく、桜が何を言ったのか理解し始める。その頃になると、いつも太陽みたいに微笑んでいた桜が、声を押し殺して泣いていた。じんわりと、わたしの頬は熱くなっている。
 いつまでも、肩を震わせるわたしたちを覆う膜は消えそうにない。

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