Oh! Friend『ブラックビューティー』解説 〜鮎川誠というROKKETが飛び立った日〜
2024年1月29日、僕の大好きなギタリスト鮎川誠の一周忌。
Oh! Friendsは『ブラックビューティー』という新曲をリリースしました。
鮎川誠に捧げる追悼曲。僕はこの曲を書くことで、鮎川誠というギタリストを喪った悲しみを乗り越えました。そしてライブで演奏するたびに鮎川誠の偉大さと、あんな凄いギタリストが生きていたという事実の凄さを噛み締めています。
『ブラックビューティー』という曲をどんな想いで書いたか、追悼の意も込めてここに記そうと思います。
2023年1月29日、鮎川誠が亡くなった。
その2ヶ月前の2022年11月23日、僕は工藤と一緒にシナロケ45周年ライブに遊びに行った。
登場した鮎川さんは少しやつれたような痩せ方だったが、演奏が始まるといつも通りの爆音ロックンロールを鳴らす。74歳があの重いレスポールを抱えて、3時間近いステージ。まるで奇跡を見ているかのようで、胸が熱くなるライブだった。
年末に鮎川さんの体調不良でライブをキャンセルしたとの報を目にし、何だか少し嫌な予感がした。
年が明けてから、僕のベースの師匠であるシナロケの奈良さんと会った。
「鮎川さんが心配です」と伝えると、奈良さんは「大丈夫、元気だよ。鮎川さん働きすぎなんだよ」と言い、僕は安心したこと同時に、余計な心配をしたことを少し恥じた(後に聞くとメンバーだった奈良さんも、鮎川さんが癌で闘病していることは知らされていなかったという)。
そんなやり取りから2週間あまり、鮎川さんの訃報が飛び込んできた。俄には信じられず、しばらくその場から動けなかった。家に帰ってからは泣いた。ひたすら泣いた。
その夜は色んな思い出が頭を巡り、なかなか寝付けなかった。そして初めて鮎川誠のギターを見た感動を反芻していたとき、この歌詞が漏れ出てきた。
僕が鮎川誠というギタリストを知ったのは、高校生のとき。BSでやっていた伝説の番組『GUITAR STORIES』で『キングスネークブルース』を弾き、シーナと2人で『レモンティー』を演奏したのを観て、それはそれは痺れた。
その漆黒のボディに金色の金属パーツがあしらわれ、その優美な見た目から『ブラックビューティー』の愛称で親しまれている、Gibsonの黒いレスポールカスタム。
鮎川誠のブラックビューティーは、何十年も第一線で弾き込まれ、凄まじいほどにボロボロだった。塗装は剥がれ、金属パーツは錆び付いて木に固着し、ネックはよく押さえるコードの形にえぐれている。ピックガードカバーに穴が空いて、トーンノブは外されている。
あんなボロボロなギターがあるものか、こんなに生々しいギターを弾く人がいるものか。多感な田舎の高校生を撃ち抜くには、十分すぎる衝撃だった。
その後に上京してMELT4でベースを弾いていた時分、僕は『レモンティー』のカバーを提案した。その際シナロケのマネジメントに「カバーさせてください」とお願いのメールを送ったら、なんと鮎川さんから「ガンガンやってくれ!」と返信をいただいた。この言葉がどれだけ僕の心の支えになっていることか。
シナロケのライブに行き、高校時代から憧れていたボロボロなブラックビューティーを初めて目にしたとき、それはそれは衝撃的だった。
本物は写真や映像で見た姿より、何倍も何十倍も輝いていた。幾千のライブでファンを熱狂させてきた本物は、まるで偉大な絵画や建築物を見ているかのような神々しさを湛えていた。
終演後にはご挨拶までさせていただいた。僕らのような何も持たない若輩者にも、鮎川さんは「今日は来てくれてありがとう。頑張ってね」と声をかけてくれた。
ボロボロのブラックビューティーを生で目にした感動を伝えたら、「エフェクターを繋いだら耳に聞こえんところが良くなくなるけんね」と言っていた。何十年もロックの第一線を走り続けた偉人は、こんなにも嘘偽りがなく優しいものかと、それはそれは感動した。
それから数年が経ち、僕はどうしてもロックンロールをやりたくてOh! Friends を始めた。
その頃の最大のインスピレーションは、鮎川誠がシナロケの前にやっていたサンハウスというバンドだったので、スタジオではよく工藤にサンハウスを聴かせたものだ。「ロックやるならこんなギタリストが理想だよね」なんて会話をしていて、冒頭にも記したように、2人で一緒にシナロケの45周年ライブを観に行った。
そのライブでは演奏された『アイラブユー』という曲にいたく感動し、次のライブで早速カバーした。今でもOh! Friendsのライブでは定番のレパートリーだ。当日のライブ動画もアップされていた。
この日のアンコールで事件が起きた。『涙のハイウェイ』の直前、ウィルコ・ジョンソンの訃報が知らされたのだ。
ウィルコという仲間を喪った鮎川さんの顔は、本当に悲しそうだった。終演後にメンバーの皆様にご挨拶に伺おうなんて工藤と話していたが、戦友だったウィルコを想う夜を邪魔になると思い、僕らはひっそりと新宿LOFTをあとにし、酒を飲みに行った。それが鮎川さんを見た最後の夜だった。
『ブラックビューティー』のサビが生まれた夜、追悼曲を作ろうと決めた。どうせなら僕の大好きな鮎川誠を、全部詰め込んでやろうと思った。
イントロからサンハウスの『ビールスカプセル』をオマージュにした。サンハウス2ndの名曲『爆弾』も真似し、サビのバッキングは『キングスネークブルース』のリズムパターンを拝借した。
歌詞も「鮎川誠とブラックビューティーの英雄譚」をテーマに書いた。穴が空いているという意味の筑後弁「ほげる」は、鮎川さんがインタビューで言っていた。「ガキ」という単語は全編阿久悠作詞の『ROCK ON BABY』に収録されている同曲から取った。「どんなステージでもロックでこの世を回した」という1行は、『ロックの好きなベイビー抱いて』の一節へのアンサーだ。
シーナが鮎川誠に打ち明けた「歌ってみたい」という言葉からシーナ&ザ・ロケッツが生まれたエピソード。シーナの地元で行われた高塔山ロックフェスのこと。
『ユー・メイ・ドリーム』に前に語られる、シーナの「夢を忘れないで頑張って」というMC。そして僕も大好きな最後のオリジナルアルバムの表題曲『ROKKET RIDE』の歌詞に対してもアンサーを書いた。
ROKKETはシーナのステキな夢を乗せ、鮎川誠のステキな夢を乗せ、僕らのステキな夢を乗せた。鮎川誠の夢はファンの夢でもあり、2023年の1月29日、ついに天国のシーナに向けてROKKETが飛び立ったのだ。
こんなに偉大なロックンローラーがいたのだ。生きていたのだ。
その存在を僕が歌わないで、誰が歌おうか。
そうやって色んな愛を詰め込んで『ブラックビューティー』が出来上がった。ライブでも決まって演奏する。毎回ステージで鮎川さんを思い出して、やっぱり泣きそうになる。でも奇跡を歌っているので悲しい涙ではなく、出会えたことへの感謝と感動の涙だ。
この曲を通して、たくさんの次世代に鮎川誠の存在と、彼が愛したロックンロールを歌っていけたらと思う。
たくさんの愛を詰め込んだ曲です。
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