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【発達凸凹】記憶の記録〜長女編(思春期から専門学校時代)〜

暑い!!とてつもなく暑い!!
長雨が上がったと思ったら 急に暑くなり身体がついていかない。
でも ここは まだ他所に比べると暑さも そこまではないのかも知れない。
他所では 40度??いったい どんな感じなのだろうか??

そんな暑さの土曜日 午前中は母の病院への付き添い。
午後からは涼しい部屋で note散策をしている。

さて・・今日は中断していた娘の思春期〜専門学校時代を記録していこうと思う。

幼少期はこちらから

「中学生になったら ちゃんと学校に行く」と言って 中学に上がった娘。
部活も吹奏楽部に入部して(担当はパーカッション)5月頃までは
早朝練習にも 朝 早くから 毎日 元気に登校していた。
これで 不登校から脱却 できるか?と思っていた私の淡い気持ちは早くも崩れ。
また 行き渋りが始まった。

それでも試験だけは受けに学校へは行き(不登校なのに成績は悪くはなかった)
担任の先生がよかった為に 完全 不登校ではなかったけれど 夏休みが明け 行き渋りが強まったので 学校側からの提案。スクールカウンセラーとの面談。
私からの幼少期からの聞き取りの中での心療内科の受診の勧め。
そこでの結果は 『広汎性発達障害(自閉症スペクトラムの中に含まれる)』と
告げられ、広汎性??耳慣れない言葉に聞き返していた記憶がある。

まだ 当時は今ほど 発達障害が 浸透していなかった時代。
でも 偉人達は ほとんど発達障害があったと聞き なんだか変に親近感がわき
(実際は そんな偉人になれる訳もないのに 妙にプラス思考の私😅)
幼少時代から 育てにくい子どもではあったけれど それも 発達凸凹だったんだ。と
す〜っと肝に落ちていった気がした。

その後の娘は 完全不登校に近くなり 当時の 児童支援の先生のご尽力によって
紙一重で学校とは繋がっていた。
登校した時は 教室には入らず いつも 料理を教えてもらっていた。
その時の経験が 今に生きている。
私が食事の支度が出来ない時(仕事等)や 自分の気分次第でのお菓子作りなどで。

不登校だったことは無意味ではなかったと今では思う。

不登校ではあったけれど 仲の良い友達はいたので卒業式には ちゃんと出席することが出来た。

そして高校は通信制へと進み。
ここでは 週4日の登校日にはちゃんと通い、パソコンの資格も沢山 取り。
中学では行けなかった修学旅行へ行くことが出来た。

高校卒業後は 犬好きなので ドックトレーナーの道を歩むも 体力が続かず断念。
中退後は 幼い頃からの夢、ライトノベル作家を目指し、単身 大阪の専門学校へ
不登校で家の近場しか行くことがなかった娘の進歩である。
でも ここでも挫折をして 1年も経たずに広島へ帰ってきた。

その後は 仕事するも 職場の人間関係から退職の繰り返しで今に至る。

娘は広汎性発達障害と合わせて、軽度精神遅延障害でもある。
そんな中 少しづつ、大人になってきている。
未だ 同じ年の子とくらべると 幼さが目立つけれど それでも 色々な経験が
今に生きていると思っている。

人は一人では生きていけない。それは健常者でも変わらない。
どんな人達が周りにいるかで 特に発達凸凹の子ども達も変わると思う。
娘は関わってくれた先生達のおかげだとつくづく思う。

どうしようもなく、涙していたあの頃。

これからの人生、どんな風になるかは わからないけれど
とりあえずは 料理が作れる😅
母(91歳)への優しさもある❤️

あとは 整理整頓と清潔さ。だけだろうか?
なにしろ 片付けられない人なので。
せめて 自分の周りだけでも・・・
ゴミ屋敷にならないことを祈るしかない😭

最後に 『みんな違ってみんないい』
私が好きな言葉である。

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