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教員1年目を終えて。心をキュッと持ち上げて過ごした日々。

「心をキュッと持ち上げる」

初めて学級担任として過ごした1年。
心をキュッと持ち上げる。そんな感覚で、私は子どもの前に立ってきた。
それは、自分1人で生きているときとは全く別の心の持ちようであり、それは私にとっての正解だった。そう思えた。


3月22日、金曜日。初めて担任をした学級の子どもたちと過ごす最後の1日が終わった。朝は修了式。学級に戻ってから、これまで私がたくさん集めてきた、その子のいいところや感謝を一人一人に伝えた。私は子どもたちに何度もこう伝えてきた。「私はみんなの良いところを1番たくさん知っている存在になりたい」と。今日、私が1年間を通して見つけた、その子の良いところを伝えられる限り伝えたい。最後の私の話を、私の目を見て真剣に聞いてくれる子どもの顔、最後の日も変わらず、褒められて照れている表情を見ていると、涙が出そうになった。涙が出そうになっている自分に気がついて、私は今悲しい気持ちだ。さみしいのだ。そう気がついた。

でも別れはポジティブなものだ。どんな形であれ、別れは次のステップとなる、よい物事の起こる前触れ。

──別れという経験は、悲しみが伴いますが実は非常に前向きなこと、良いことが起きる前触れだということを知っておきましょう──

ワタナベ薫(2016)あなたは、「別れ」でもっと輝ける!. 幻冬舎

この一節と出会ってから、これまでそう信じて生きてきた。だから、自分の学級との別れに対してもポジティブに考えていたし、子どもにもそう思ってほしかった。さみしさいっぱいの別れなんていやだ。私は、別れを喜ばしい感情で迎えたい。だって、子どもたちは進級するのだ。涙がさっとひいた。私は今、伝えるべきことを伝えなければならない。「私は学級の子どもの良いところを1番たくさん知っている存在になる」と決め、そうなれるよう願い、毎日毎日子どもを大事にして見つけた、子どものたくさんのすばらしいところを伝えずに別れたら、私は後悔する。そう思い、涙は見せず、最後まで笑顔で言葉を伝えた。その後、この教室で言う最後のさようならを言って、子どもたちが教室を出ていく。

「先生、1年間ありがとうございましたー!」
「先生、大変、大変お世話になりました!!」

1年間ありがとうとか、お世話になりましたとか、そう言われたくて過ごしてきたわけではないのに、そう言われると照れくさい。そうか、私は感謝されたんだ、お世話になったなんて言われる存在なのか、そんな言葉が出てくる子どもたちになったのか、そんなことを思う。1年前の始業式、ぼんやりした表情で私のことを見ていた子どもたちの姿が思い返される。あの日出会った子どもたちは、今では一人一人の名前や思い出がはっきりと浮かぶ子どもたちへと変わった。いつもの帰りのように、手を振り元気に教室を出ていく子どもたちに、いつものように手を振り返し、笑って見送った。6年生に、どうぞ行ってらっしゃい!


子どもたちが帰った後、子どもたち一人一人に書いてもらっていた「ゆか先生の通知表」を読んだ。ゆか先生の通知表とは、その名前の通り子どもたちから私に対しての通知表である。子どもに渡す通知表でいう、生活の様子に対しては、「よくできた・できた・もう少し」で回答してもらう。それに加えて、私(ゆか先生)の様子はどうだったか自由記述で求める。教務主任の先生に教えてもらってから初めて夏休み前に実施し、今回は1年間の振り返りとして実施した。Google formで作成し回答を収集。子どもたちが帰った後、職員室で回答をじっくり読んだ。意図せず、にやついてしまう。嬉しい。言葉って、宝物だ。

──ああ、良い1年だったな。

ほんとうに良い1年だった。そう思った。私は自分のクラスの子どもたちが可愛くて、そして大好きだった。そして、そう思えたのは出会った子どもたちが素敵だったからだ。

5月にも思ったけれど、学級の子どもたちとの出会いは、自分に大切な存在が増えるような感覚をもたらしてくれた。

退勤し、帰り道。そこで初めて、ある女の子からもらった手紙を読んだ。ゆか先生があこがれで、過ごした日々が大切で、今までで1番早く感じた1年だったと書いてあった。その言葉からは、私がその子どもにとって意味のある存在であったことや、良い影響を与えた存在であったことを感じた。でも、私はこの世界のただ一人の小さな存在なのだ。生きていてもたいして褒められはしないし、影響力もほとんどない。それなのに、目の前の子どもの存在によって、自分の存在に意味が生まれると感じられることが、どれほど嬉しいことか。私は、もらったお手紙を読みながら、そして学級の子どもたちとの思い出を振り返りながら、泣いた。


私は目の前の子どもの毎日をほんの少し、良い1日にしたい。毎日その思いで子どもに接してきたと気がついた。それは、子どものためのようであって、自分のためでもある。私はいつまでも、私のいる世界のほうが、私のいない世界より良かったと思いたい。

面白い授業ができたら、子どもの1日がほんの少し楽しくなるだろう。それが嬉しい。学級で子どもが友達と笑いあえたら、子どもは1日を楽しく思えるだろう。それが嬉しい。私が子どもを褒めることができたなら、その日は「先生に褒められた日」になる。それが嬉しいのである。私は努力すれば面白い授業をできるようになるかもしれないし、学級で子どもが友達と笑いあえる場を、影武者ながら作り出せるかもしれないし、学級集団の雰囲気を良くも悪くも変える力がある。子どもの1日をほんの少し良い1日にできる力が、わずかながらある。そこに、私は私の存在の意味や希望を見出せる。大げさに聞こえるかもしれないけれど、私にとってはそうなのだ。

でも、子どもにより良い1日を生み出す力を発揮するには、等身大の自分の持つ心の位置では、少し低い。自分の気持ちが緩んでいたり、だらけていては、子どもの1日をほんの少し良くすることはできない。自分の気持ちが満足した状態でなければ、子どもに余裕を持って接することはできないし、子どもを褒められない。抽象的な表現になってしまうのだけれど、私は教室に入るその瞬間、そして、子どもたちの前に立つときには、自分の心の位置を数センチ引き上げる。心をキュッと持ち上げる。それははっきり言って面倒だし、自分の心が整っていないとできないし、力がいる。でもそうやって面倒な作業を毎日毎時間、積み重ねてきた自負がある。だから、今振り返って良い1年だったと思えたのなら、この面倒な営みは間違っていなかったのだと答え合わせができて、最後の日の帰り道に泣けてきたのだろうと思った。いつだって、不正解なのか正解なのかわからないけれど、自分なりの最善を探し、行い続けてきたのだから。


さて、今年私は4年生の担任である。1学年違うだけでこんなにも違うのかというくらい、発達段階の違いを感じる日々。言葉をかみ砕いて伝えないと伝わらないことが多いし、子どもたちの声は「ザ・子ども」で、まだ耳が慣れない。みんなで歌う声や音読なんて、特にそう。5年生もそうだったけれど、子どもって、「あたらしきもの」という感がものすごい。見た目も、心も、あたらしい。あたらしきものに囲まれ、あたらしきもの集団の中で過ごす毎日は刺激的だし、面白い。今年は、学級が庭に見える。時間と機会を見つけては庭のお手入れをするような感覚。悪い芽になりそうなものは早めに抜き、必要な栄養を与えていく。でも、余暇に楽しむ趣味のガーデニングではなく、私にとっては戦いである。1年後、花の咲き誇る庭にすべく、私は学級という名の庭をせっせと手入れする。

こんなふうに、子どもたち、いっぱい咲いてね。

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