20代最後の夜に思うこと
明日で30歳になる。
20歳になるときには「失われた20年」と言われ、30歳になるときには「失われた30年」と言われる。
日本という細長い国民国家に生まれ落ちてこのかた、もうずっと、失われてしかない。
I’m so lost. というのか、Fxxx, we’re totally lost here. なのか、とにかく何かを信じたり無防備に未来を楽観したりすることは速攻ナラクの落とし穴だとばかり思い知らされてきた世代。
1992年、まっさらでうまれてくる。
1993年、1歳でバブル崩壊表面化。
1995年、3歳で阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件。
2001年、9歳でニューヨーク同時多発テロ。
2008年、16歳でリーマンショック。
2011年、19歳で東日本大震災。
2015年、23歳でISIL(イスラム国)台頭、テロ頻発。
2020年、28歳で新型コロナパンデミック。
2022年、30歳手前でロシアがウクライナに侵攻。
…もうたくさん、と思えば思うほど、世の中は忙しなくて、あまりに粗暴。
何かを信じることは危険思想で、誰かを蹴落とすときにもゆとりを持てと教えられ、「自分らしくあれ」と「大人になりなさい」の狭間でぐらぐらと揺さぶられる。
規格化と価格競争に疲弊した社会で、商業アイドルへの課金に慰めを見出し、ネット上の電子アバターに自己実現を委託する。
対岸の火事の煙で肺を満杯にしながらも、沈みゆく船に開いた穴の塞ぎ方も分からない。
なんのために生まれてきて、
なんのために生きるのか、
大人が繰り返すその問いに、
意味を求めるなんて無意味だろうと思ったのは
10代の頃だっただろうか。
30年経ったいまでも、生きることで
何を問い、何を答えるべきなのか、
そんなの欠片も分からない。
失われた30年は失われた50年のうちの5分の3だったのか、それとも失われゆく3000年のほんのはじまりにすぎなかったのか、あるいは次のシステムが生まれくる胎動の30年だったのか。
その賭けに、そろそろ参加してもいい頃なのかも。
時間は必ずしも線形に一方向に流れるわけではないかも知れず、過去に引き戻そうとする磁力が今強く働いているのなら、せめてそれに最後まで抗う砂鉄の小片程度な自分ではありたい。
そんなことを願いながら、ぬるぬると20代に幕を下ろす。
おやすみなさい、またあした。
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