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役に立つの先に、やさしい世界はあるのか

最近のぼくは、SNSの力を感じることがおおい。

ぼくは昨年の7月ごろからインスタグラムをやっているのだが、DMでメッセージを送ってくださる方々がいる。投稿している内容にかんしての感想や、ぼく自身のことを肯定してくれるような言葉を送ってくれる方もいる。

ぼくはこれまで、なにかを発信するようなSNSの使い方をしてこなかった。インスタグラムもアカウントの登録はしていたものの、ほとんど使ったこともなかった。

X(旧Twitter)はよく使っていたが、「発信しよう」という気持ちでやっていたわけではなく、日記のような使い方だった。だからこそ「発信する」を目的に使ってみると、新しい世界がみえてきた。

表舞台にでている人が、「みなさんからの応援が力になっています」「お手紙などいつも読んでいます」などと言っているのを聞いたことがある。ぼくは(ものすごく失礼ながら)それをパフォーマンスの一環だとおもっていた。

だから、自分の送ったメッセージにも、そこまで力はないだろうともおもっていた。が、これが誤りであったことが今ならわかる。なぜならぼくは、メッセージが送られてくるたびに、それが相当な力になっているのを実感しているからだ。

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『温かいテクノロジー』という本を読んでいる。LOVOT(らぼっと)と呼ばれる家族型ロボットの話だ。この本には、こんなことが書かれている。以下の文章は、実際に書かれている文章ではなく、ぼくが解釈したことを文章にしたもの。

LOVOT(らぼっと)はロボットであるが、人の役には立たない。家のなかを掃除してくれるわけでも、仕事を効率化してくれるわけでもはない。

しかし、人に役割を与えてくれる。LOVOTは、人にお世話されないと生きることができない。充電がきれると動かなくなるし、転んだら自分では起き上がれない。だけど、だからこそ「この子はわたしがいないと生きていけない」と人に思わせてくれる。LOVOTは、「LOVOTのお世話をするわたし」の役割をくれる。

つまりこれは、人の役に立っていると言えるのではないだろうか。

ずいぶんと長い解釈の文章になってしまったが、本にはこのようなことが書かれている。
(よかったら読んでみてね。)

以前に、なるほどなあと納得した話がある。たとえば、公園にいるハトにエサをあげている人がいるとする。ハトにエサをあげることで、その公園にはハトが集まるようになり、糞の問題などが発生する。公園の管理が大変になる。

そのため、公園の管理人さんは「ハトにエサをあげないでください」と注意書きの看板をたてる。しかし、ハトにエサをあげる人はやめてくれない。これは、どうしてだろうか。

じつはこれは、先ほどのLOVOTの話とおなじで、公園の管理人さんからするとハトは厄介な存在(役に立たない)なのだが、エサをあげる人からすると役に立っているのである。

なぜならハトは、「エサをあげる人」という役割をくれるからだ。エサをあげるのは、ハトが大好きだからではない。役割が与えられたから、エサをあげているのである。この話を聞いて、なるほどなあとおもった。

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AIによって奪われる仕事があるという。人々は、それに恐怖をかんじる。なぜなら、自分の役割が奪われるからだ。最初からAIを嫌っているわけではなく、役割を奪ってくる存在だから嫌いなのだ。

人は、役割がないと生きていない。それはぼくも同じだ。多くの人が仕事をしすぎてしまうのも、自分の役割をかんじているからだろうとおもう。役割があるというのは、この世界から必要とされていることと同じだ。

役割がある=この世界から必要とされている=自分は世の中の役に立っている

こういう捉え方ができる。では、役に立つとは一体なんだろうか。「役に立つ」と聞くと、怖いなあとおもう気持ちがある。だれかに評価されている気がするし、間違えたことをすると役に立たない認定をされてしまうのではないかと考える。だから、怖いのだ。

しかし、冷静に考えてみると、一体ぼくたちはだれの評価を気にしているのだろうかとおもう。自分を評価しているそのだれかも、他のだれかに評価されている。そしてそのだれかも、今度は違うだれかに評価されている。

存在しない「だれか」を、ぼくたちはいつまでも気にしているのだ(とおもう)。とは言っても、じゃあ今日から気にするのをやめましょう、というのはむずかしい。

ここで言う「むずかしい」は、「よくわからない」ということだ。気持ち的にやりたくないなどではなく、どうしたらいいのかわからないのだ。わからないから、そのままにしてしまうのだ。

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ぼくも、わからないことがたくさんある。しかし、インスタグラムを始めたことや、LOVOTと触れ合ったことで、この世界では役に立つという言葉の意味がすごく限定的に使われているのではないかとおもった。

自分の送った一通のメッセージが、送った相手のエネルギーになる。エネルギーをもらった相手は、そのエネルギーを違うだれかに渡す。そしてそれを受け取っただれかが、また別のだれかに渡していく。

「役に立つ」というのを、そんな風に捉えるほうがやさしいような気がする。自分が役に立っているかどうかを日々気にしながら生きる世界よりも、人はみんなだれかの役に立っているという前提が当たり前のようにある世界のほうが、ぼくは好きだなとおもった。

社会のルールがあなたを幸せにしてくれないというのなら、そんなの社会のルールが間違ってる

ぼくの「心に残ったことばメモ」より

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イガリハル
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