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不登校のたくさんの事例から学んだこと
こんにちは!りょーさんです。
これまで僕たちは、たくさんの不登校の子どもたちをサポートしてきてきました。
すでに社会人になっている人もいれば、大学生もいます。
今まさに不登校で関わっている子どもたちもいますが、いずれにせよ、いろんな人たちがいました。多様なのです。
どんな事例があったかな、、、
個人情報に関することなのであまり詳細を書くことはできませんが、その経験から思うのが、やはり「基盤は関係性」ってことです。
今日はなぜ関係性なのか?についてちょっとだけ感がてみたいと思います。
とにかく、いろいろだってこと。
小学校から不登校で、中学に特別支援学級に移り、そこから大学に進学した人がいます。今は僕たちの塾で学生講師アルバイトしています。
発達凸凹で中学3年間不登校、通信制高校に3年間通って大学生になっているお子さんもいるし。
自力で高卒認定とって、予備校通って有名な大学に行き卒業、すでに就職している人もいます。
小学生低学年からずっと学校に行っておらず家での生活と週2回程度の私たちの活動のみ。そこから、ふと「中学から行く!」ってなって、そこから安定して通えているお子さん見ます。
こういった事例を見ていくと、なんだかんだ収まるところに収まる感じがあり、近くで見てきた立場としては感慨深いものがある事例たちです。
一方で、僕たちとの関わりを継続しきれず、通い続けることができなかったり、引きこもりに近い形になってしまったり、僕たちとしては力不足に感じること、、、、そういう事例もたくさんありました。
自分達を責めても仕方ありませんが、支援する側の立場として、「後ろめたさ」、、、というと傲慢な感じがしますが、やはり何か心に小さなトゲが刺さっているような感覚が残っています。
何が悪いとか間違っているとかではなく、事例を振り返ってみても、その子供たちの「その後(予後)」も多様だったな、、、って思います。
学校行っていなかったことが結果的に豊かな経験につながる場合がある、常識や当たり前から離れて、当たり前のコミュニティに所属できず、苦しんだことが結果的にいい経験だったなって本人が思える、そんな場合もあるし、そうでない場合もある。
ふーむ、、、。
いろいろ見てきて思うのが「関係性」が基盤だってこと
で、予後を見た時に、いろんなパターンがある。何を持ってよかったか?とするのは難しい、それだけでだいぶ言葉を重ねないといけない。
でもそれだと議論が進まないので、すくなくともいったんトンネルのようなものを抜けているってことを「とりあえずよかったね」ってことにします。
一旦何が人をより良い方向に向かわせるのかな、、、って考えた時に、やっぱり「関係」が僕の中でベースにあります。
僕たちの不登校サポートにおいても、まずは個別に大人との1対1の関係を作っていく、そこから本人と合意を取りながら、他者との関係を広げていく。
そこである種の「当たり前」「常識」から離れて、違いを受容し合う場や関係を生み出していく。そのことで、安全・安心が生まれる。
そこからちょっとずつ挑戦が本人の主体性のもとに進んでいく。
関係性、そしてそれを基盤に展開される活動、学び、対話…。
これは子供をこねくり回して変えるってことではなく、子供の好きなこと、関心があることに寄り添いながら、本当にしたいことにつちえ一緒の時間を作っていく。あるいはそこにやりたくない勉強もあるかもしれない。勉強嫌だって気持ちにも寄り添いながら、学びを共にする。そんな関係がなぜいいのか?
サポートのヒントは欲望を育てること??
不登校の子供たちに出会うとこんな言葉を聞くことが多い。
「やりたいことはない」
「そんなことをやっても意味がない」
なんか欲望がなさそうに見えるんだよなー。
最初僕は「やりたいことないなんて嘘じゃん」って思っていました。だって毎日ゲームしているし、寝ているし、飯食っているし。
そんな中で日本にオープンダイアローグを普及するのに尽力している精神科医の斎藤環さんの本に「欲望は人から与えられるもの」っていうようなことが書いてあって、なるほどなーって思ったんです(違ったらごめんなさい)。
考えてみると、僕が好きなものって誰かの影響を受けている。
ファッションだって髪型だって、好きなミュージシャンだって、映画や本だって、そうなんです。誰からも影響を受けていない「好きなもの」ってない。
欲望って書くと、なんかいやらしく響くかもしれませんが、欲望ってざっくりいうと「したいこと「欲しいもの」」です。
僕らは欲望があるから、活動ができるって言っても過言ではない。
なのでいったん欲望があるから何かできるって仮定してみましょう。
そしてその欲望は他者からしか与えられないとしたら?
不登校の子供たち、なんか欲望が薄いように見えるのは、関係性から排除されているからか、だから、関係性が大事ってことかーって実感を伴って頷いてしまうのです。
(でも支援する側が「関係性を作らせよう!」って視点に立つと、相手をコントロールすることになり、大抵は支援する側が大きな過ちをおかすことになります。難しい、、、)
おそらく、、、ですが、支援の基盤は、「相手の関心に関心を示すこと」です。
この辺は岸見一郎氏の『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』を読んで欲しいのですが、本人が好きなものに僕達が関心を寄せて一緒の時間を共有する。それが大人からすると下劣なものに見えたとしても、です。
そこから関係性がスタートする。その「共有する」ってことが、他者と生きるための欲望を育てるってことなのかなーって思うのです。
決して、「友達を作りなさい!」「好きなことを見つけなさい!」ってことではないのです。
※記憶が定かではないし、参考文献ではないのですが、この本を読んで「なるほどー」って思った覚えがあります。おすすめです。
だから「居場所」が必要なんです。
でも、「居場所」って言葉が一人歩きするのも良くないって思います。
「なんで居場所が必要か?」「どんな居場所が必要か?」の方が大事だからです。
そして居場所を用意して、子供たちと関わる僕たちが「どんな居場所を用意できるか?」を常に考え続けること、、、試行錯誤し続けること、、、何が答えか、簡単に言語化できませんが、僕のこれまでの不登校に関する議論の下敷きになるものです。
もうすぐ年も終わりですね。
僕にとって今年は、安定した一年でした、気持ちを整えた一年というか、土台を整えた一年というか。
来年はさらにたくさんの活動の種を蒔いて育てたいな、、、子供達の役に立てたらいいな、、、そんなことを思っています。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
追記
元アルバイトスタッフのバイソンが、就職してなお、僕たちの活動を紹介してくれています。ありがたい限りですが、ここでも紹介したいと思います。代表である僕の視点よりもアルバイトが働いてみての視点から見えるものの方が、もしかしたらみなさんに僕たちの活動が伝わるのかもしれません。ぜひ読んでみてください。