毎日を死んだように生きるのでなく、明日死ぬかのように今日を生きたいって話。
「死んだように生きる」
そう表現するとき、そこには死に埋没した生がある。
死に覆いつくされた生がある。
生と死の境界線が融合して曖昧と化している。
「明日死ぬかのように生きる」
そう表現するとき、そこには明確な生がある。
死に塗りつぶされていない、純粋な生がある。
簡単な話、「明日死ぬ」ということは、「今日はまだ生きている」ということだ。
私は気が付くと、死んだように生きている。
水面に垂らした墨汁が広がっていくように、死が私の生を黒く染めていく。
生きているのに生きていない。
そんなくだらない言葉遊びが的確に感じるような日々を送る。
けれど、目の前に死を想像するとき、私の視野はたちまち明るくなる。
死はまだ私を飲み込んではいないのだ。
私はまだ生の中にいるのだ。
時間が経てば、また、目の前にあった明確な死は私の周りの生と混ざり合ってぼやけていく。
濁って濁って、息苦しくなり、さらに生と死が一つになっていく。
そして、ついに死に飲み込まれそうになると、死が自分の中で強く意識され、目の前に来る。そして視野が明るくなる……
そんな繰り返しの人生。
私はいつかは必ず死ぬ。
誰も私の死の身代わりになることはない。
死を前にしたとき、私という存在の輪郭が浮かび上がる。
そんなことを言っている奴もいたな。
自分という存在が明瞭になったからと言って救われるとは限らないというのに。
むしろ自分が定まっていけば定まっていくほど、逃れられない運命に押しつぶされそうになるだけではないか。
自分の口から溢れでた汚穢なぬるま湯に飲み込まれ、窒息していく。
せめて、清々しいほどに蒼く燃え盛る焔で身を燃やし尽くしたい。そんな美しい最期を迎えられたらどんなにいいだろうか。
「明日死ぬように生きられたら、死んだように生きなくても済むのだろうか」
なんて、下らないな、ほんとうに。