虐待児・ヤングケアラー・親の自死…それでも私が生きる選択をした理由
私は幼少期、
母から虐待を受け育った。
母は、
寒さの厳しい冬に、
当時3歳だった私をベランダに追いやったのだ。
その後父と母は離婚し、
親権は母になった。
私には重度障害者の妹がいたため、
妹の介護も半ば強制的にやらされる毎日。
好きな漫画も自由に書けず、
大好きな本を読む自由もない。
友達と遊びに行く約束をしても、
留守番を強いられることはたびたびあった。
それでも私は我慢をした。
それは、
母から認められたかったからだと思う。
小さな自尊心と小さな自己肯定感。
そして、
大きな承認欲求を抱えて生きてきた私。
母は私を裏切るかのように自殺をし、
あの日から20年が経過した。
さて、
そんな私でも母の自殺から20年生きてきた。
母が自殺をした年齢は41歳。
私は来年の4月、
母が死を選択した年齢になる。
正直、
ここまで生きることに自信はなかった。
きっと私も母と同じように、
死を選択してしまうかもしれないと怯えたこともある。
だけど今は、
自信を持ってこう言える。
私は寿命が来る日まで、
命を大切に生きる、と。
母は私に対し、
粗末な扱いをした。
その一方で、
愛情を与えてくれることもあったのだ。
私が求める母親像と、
実際に母親が違っただけ。
そう思い込むことで、
苦しい現実から目を背けてきた幼少期。
私はもう、
現実から目を背けたくはない。
愛にも環境にも恵まれなかった私だが、
今でも忘れない大切な言葉がある。
本来であれば、
母親から言って欲しかった言葉。
それは、
20代の時に交際していた彼氏からだった。
「春奈はわがままだ」
一瞬、
私の思考は停止した。
その後すぐに、
彼はこう続けた。
「わがままという字を漢字で書くと、我が儘。我が儘に、春奈はそのままでいていいんだよ。自分の人生を、そのまま進んでな」
私という人間を肯定的に例えた、
彼の言葉だったのだ。
この言葉を聞いた時、
嬉しくて嬉しくて涙目に。
ここで嬉し泣きでもできたら、
もっと素敵なエピソードになったかもしれない。
しかし私は、
泣くと叱られるという幼少期を過ごしたがため、
泣くことは悪だという思い込みがあった。
例え感動しても、
なぜか涙を我慢するのは今も変わらない。
私のままでいていいなんて、
親から言われたことすらなかった。
本当は彼の胸に飛び付き、
「嬉しいよ!ありがとう!」と伝えたかった。
でも、
「ありがとう」と伝えただけに終わってしまったのだ。
もし彼と再会できるのであれば、
私は真っ先にこのことをお礼するだろう。
彼はなんとなく口にした言葉かもしれないが、
生きづらさを抱えて生きてきた私に「自己肯定感」を与えてくれた。
私は自分を認めてくれる誰かを、
ずっと探していたのかもしれない。
もし、
この彼と出会っていなかったら…。
私は生きていたのだろうか?
もっと苦しい思いをしていたかもしれない。
私はこの彼の言葉を、
ずっと胸に秘めて生きてきた。
残念ながら彼とはお別れしてしまったが、
その後に続く困難にもこの言葉をお守りに生き抜いてきた。
言葉は時に、
凶器になる。
しかし、
私は彼からもらった言葉が武器となり、
お守りとなった。
世の中にはあらゆる言葉が飛び交っているが、
どうか人を生かす言葉で溢れて欲しいと願う。
これからも嫌なことがあった時、
私はこの言葉をお守りに生きていこうと思う。
私は私のままでいい。
もちろん、
これを読んでくださっているあなたも、
あなたのままでいい。
自分の存在を否定せず、
ただただ可愛がってあげて欲しい。
あなたも私と同じように、
我が儘に進め。
そして、
生きていけ。
私もあなたも、
一人ぼっちじゃない。
自分の一番の味方は、
誰でもない自分自身だからだ。
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