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リセットとリスタート/真鶴・長谷


3月ももう終わりが見えてきた。あったかくてやわらかい空気に、それだけで気分が浮ついてしまう。街がカラフルに色づいていくのも嬉しい。
喜びも束の間、きっとすぐ夏が顔を覗かせてくるのだろう。永遠に歩き続けても清々しいままいられる季節は一瞬だ。

そんな心ときめく春の始まりに連休をもらった。夏休みと別でもらえるおやすみを3月にしようと決めた去年のわたしは、すでにその時点で何かを予感していたのかもしれないと思う。



あまりに遠く、人の多いところは憚られ、また海の側で静かに過ごしたいという思いから、神奈川の真鶴と、鎌倉は長谷を行き先に選んだ。
真鶴は、泊まれる出版社という魅力的なキャッチフレーズに惹かれた宿を目当てに。長谷は、雰囲気と考え方と置いてある本のチョイスが最高な宿があるのに加え、歩いてすぐの由比ヶ浜の海に何度癒されたかわからない、わたしにとってはもう馴染みの土地だ。

自然豊かで人のあたたかい街。大きすぎずゆるやかなコミュニティが人々を繋ぐ街。
わたしの思い描く理想の暮らしが営まれている街だ。


ときどき東京を離れたくなるのは、よくもわるくも東京という街がわたしの現実だから。肌に合わない土地柄と責任の重い仕事で凝り固まった体と心を、ゆるゆるとほぐしてくれる場所を定期的に求めてしまうのだと思う。

でも、本当は、向かない場所で壊れそうになるたびどうにかするような生活ではなくて、居心地のよい場所で楽に呼吸ができるような生活がしたいと願っている。ずっと。

「自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、後ろめたく思う必要はありませんよ。サボテンは水の中に生える必要はないし、蓮の花は空中では咲かない。シロクマがハワイより北極で生きるほうを選んだからといって、誰がシロクマを責めますか」

ー西の魔女が死んだ/梨木香歩

最近とくによく思い出す一節。何のしがらみもない生活など、責任のない仕事などないとわかっている。ここまでやってこられたから、このままの生活を続けることもきっとできる、とも思う。

でも生まれてしまった違和感は大きくなるばかりで、それに目を背けたまま過ごしていくことなどわたしにはもうできそうもなかった。
無傷なように見える人と自分を比べて、どうしてわたしは大丈夫ではないのだろうと考えてしまうのもやめたかった。

仏教では、「幸せ」を「安心(あんじん)」と呼んだ。心が安定することこそが、幸福な状態なのだ。

ーころころするからだ/稲葉俊郎

ずっと考えてきたことだけれど、わたしのしあわせとは何なのだろうか。見つけたと思っては、またすぐ見失って。
少なくとも、今の生活は"心が安定すること"からはほど遠いような気がしてしまう。



心躍るような空間を自らの手で築き上げてきた方たちと話す中で、どきっとした瞬間があった。些細な一言だったけれど、わたしが以前感じた違和感をずばり指摘されたような感覚があった。それは今思えば、自分のために揉み消した、小さな小さな違和感だった。

発した言葉に意図があろうとなかろうと、どう解釈するかはいつでも受け取る側に委ねられている。自分の言葉も人の言葉も、時に想像以上の効力を発揮するのだ。大袈裟なようだけれど、言葉ひとつで人も人生も変わってしまうことが確かにある。

長谷の宿に置いてある雑誌の中で見つけた、言葉を誠実に扱おうと意識するようになったエッセイを思い出す。

人を死に追いやる言葉もそこから連れ戻す言葉も、日常会話の中にあります。言葉そのものがある決定的な瞬間に人を変えるのではなく、たまたま出会った言葉が、胸に着地してそのまま消えてしまった痕跡が、人を変えるのだと思います。
・・・
反対に、なんの気なしの一言が、誰かの救いになることもあります。

ー死にたいと思ったときに(考える人59)/小島慶子

"言葉には力がある"というと薄っぺらく聞こえてしまうけれど、無数の言葉たちをお守りにして生きてきたわたしにとって、それは簡単でない人生を支えてくれるもののひとつと言っても過言ではない。

もらったのは何気ない一言でも、それがなければわたしは今も大事なことに気づけないままだったと思う。


それから、今のわたしにあまりに響いた言葉も、この先の自分のために記しておきたい。

"自分で選ぶ道を、選んだあとに正解にしていくのも自分"

"魅力的な2つの選択肢を前にして、迷った末に片方の道を選んだのだけれど、その決断はすごくよかったし、結局そう思えるようにするのは自分なんだなと思ったよ"と教えてくれた。

結果はこうだと教えてくれれば楽なものを、もちろん未来は誰にも分からなくて。人の真似をすればうまくいくとも限らないし、自分のことは当然自分にしか決められない。
だから今その時納得のいく選択をする、ということを延々と繰り返していって、ぼんやりと不確かな未来をわたしだけの正解に作り上げていくしかないのだと思う。

小さくない決断を前に足がすくむわたしの背中をふわっと押してくれる、やさしく温もりのある言葉だった。



不安を打ち消すように一点しか見つめていなかったわたしは、憧れる生き方を体現する方々に、"こんな未来もあるよ"、"こうしたらどうかな"、"わくわくするね"とどんどん視界を広げてもらったことで、振り出しに戻ったにも関わらず楽になっていた。

きっと今訪れるべきだっただろう場所に引き寄せられた今回のように、自分の心に素直に従っていけば、そのうち目指していた未来にたどり着いているはずだ。これまでの人生だって、わたしはずっとずっと、そうしてやってきたのだ。
出会うべき時に出会う人、場所、経験や言葉たち。望む未来さえ見失わなければ、然るべき時を逃さず踏み出す勇気だけ握りしめていれば、きっとこれからも、見えない縁は繋がっていく。
そう深く信じることができた時間だった。

「手紙屋がこんなに身近にいるなんて思いませんでしたよ」
「ハハハ、よく言うだろ。その人の人生に必要なものはその人の周りに過不足なくそろっているものだってね」

ー手紙屋/喜多川泰



わたしの尊敬するライターの夏生さえりさんが、以前"将来の夢は何ですか?"という質問に対し、"朗らかに暮らすこと"と答えていた。当然といえば当然かもしれないけれど、夢は必ずしも壮大でなくていいし、自分の望む状態を表してもいいのだ。それは人に語れる夢などないなと思っていたわたしをはっとさせた。

さえりさんは著書で、パートナーがかけてくれたという言葉を載せている。

「さえりはさ、なにをしたいかを考えるよりも、どう在りたいかを考えるひとだと思うんだよ。どんな生活をして、どんな自分でいたいかを考えるひとなんだよ」

ー揺れる心の真ん中で/夏生さえり

何を食べよう、どれを買おう、どこに住もう、どんな仕事をしよう、誰と繋がろう、、、わたしたちは大きさも内容も様々な選択にいつも迫られている。時に即決できない難題もあれど、すべての思考のベースは"どう在りたいか"に集約されるのではないか。

穏やかに健やかに暮らしたい、そして側にいてくれる人にもささやかなしあわせをそっと手渡して生きていきたい、それがわたしの理想とする在り方だ。
わたしの、ありきたりで平凡でも、大切な夢。



大丈夫だ、もう迷わない。すぐ不安で押し潰されそうになるわたしだけれど、そんな時戻るべき場所だってできたから。
そう思わせてくれた出会いと、街と、言葉たちと、春の海に思いを寄せながら、わたしはわたしの日常に戻っていく。

またいつの日か必ずと誓って。