
山本太郎 総理への条件① 山本太郎とは何者か【前編】生い立ち~俳優への道
政治家・山本太郎 総理への条件
本稿では、れいわ新選組を率いる政治家の山本太郎氏に関する論考である。国民の悲しみの声に耳を傾け、世界の多様性を重視し、豊かな暮らしと幸福を実現することを公約に掲げて政治活動に邁進する山本氏の言動はアウトサイダーとして着実に力をつけている模様だ。
「山本太郎を総理大臣にさせたい」「停滞した日本を変えたい」そんな声は街のあちらこちらで聞こえてくる。彼らの期待に応えるべく、れいわ新選組に共鳴した仲間たちとともに奮闘している姿はいまや注目の的となっている。もちろん、山本太郎氏以外のアウトサイダー系の政治家たちも2024年の総選挙で議席を獲得し、国政に参入するようになったという事実もある。今後、日本政治の行く末はもはやオールド政党になく、アウトサイダーの人たちにかかっているといっても過言ではない。
他方、「山本太郎は総理大臣になれない」「山本太郎なんか大っ嫌い!」「山本太郎は鬱陶しい!」と思う方もいるだろう。確かに山本氏は暑苦しい。
2023年6月8日の日刊スポーツの記事によると、国会で入管難民改正案の決定を阻止しようとして公明党議員の背後から飛び掛かり、無理くり止めようとした行為は政治的パフォーマンスとしてやりすぎた面がある。
だが、国民に対する目線は揺らぐことがなく、義理と人情に溢れた人柄でもある。人に対する思いやりや心優しさに共感し、支持者を集めているのも紛れもない事実だ。
そこで、本稿ではシリーズ『山本太郎 総理への条件』と題し、「山本太郎研究」に関する論考を書き綴っていく。山本太郎氏が総理大臣になるために何をやらなければならないのか。取り組むべきテーマを各々のnoteで挙げていくことにする。読者とともに日本政治のあり方を考えてみたいと思う。
私は山本太郎氏の政策を全面的に賛同するわけではない。かと言って、すべてが悪いと決めつけるわけではない。山本氏が実現しようとする政策はまだ不完全なものがあるからだ。読者も同じ思いを抱いていることに違いない。冷静な目で政策の中身をよく吟味し、良いところは評価する。批判すべきことは批判する。そうでなければ、日本の政策議論は健全な方向へ進んでいくことができない。
国民のための政治を実現するのであれば、日本で起きている社会課題を取り上げ、世界各国の政策を例に出しつつ、政策をより良いものにアップデートしていく必要がある。本稿がそのための参考となる材料になれば、望外の喜びである。
山本太郎とは何者か
この研究テーマを取り上げるにあたって、まず知っておかなければならないことがある。「山本太郎とはどういう人物か」という視点だ。読者の中には名前を聞いたことがあるだろう。でも、どういう人柄なのかを知らない人もいる。簡単に彼の経歴を紹介していこう。
山本太郎氏は1974年に兵庫県宝塚市に生を受けた。1990年、当時高校1年生だった山本氏はバラエティー番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の「高校生制服対抗ダンス甲子園」に出場し、注目の的となった。その成果が評価され、芸能界への扉を開いた。
翌年の1991年、映画『代打教師 秋葉、真剣です!』の準主役を担い、役者としての才能を発揮した。肉体派でありながら、どこか素朴さを持つ優しき一面と、ヤクザの若頭などの強面の両方を持つ役柄が定着し、50本以上の映画・ドラマに出演した。俳優としてのキャリアを着実に歩んでいった。1992年の『しあわせの決断』で、1996年にはNHK連続テレビ小説『ふたりっ子』にヒロインの相手役である海東壮平役を演じ、ゴールデン番組に進出を果たした。2004年にはNHKの大河ドラマ『新選組!』に原田左之助役で出演し、戦国時代に相応しいサムライ魂を前面に表現した迫真の演技は「山本太郎」という名を徐々に広めていった。(詳細はWikipediaを参照されたい。)
生い立ち
山本氏は幼い頃から父がいなく、母親に育てられた。女手一つで育った家庭環境だった。著書の『山本太郎 闘いの原点』(ちくま文庫)では山本氏が自身の生い立ちを振り返りつつ、母親から強い影響を受けてきて育ったと語る。
< うちは物心ついたときから父はなく、母親だけで育てられたんですね。この母親という人が、とにかくパワフルで正義感が強く「すべての弱い立場の人には手を差し伸べる」って考え方の人で。子供の頃から、もうそればっかりうるさく言われて育ったんですよ。
彼女は、貧しいフィリピンの子供の里親になるボランティア団体にも入っていて。自分でも何人かの子供の里親になり、面倒を見ていましたね。それで僕もちっちゃな頃から、その子らに会いにフィリピンに行ったりしてました。>
山本氏は幼少期から母親に連れられて、貧しい人たちが住む地域のボランティア活動に参加し、弱い立場にいる人を支援することを間近に見てきた。社会的弱者に対する温かい眼差しは山本氏の心に深い感動を覚えたのだろう。
順調に育った山本氏は母とともに計3回、フィリピンに渡航した経験を持つ。レイテ島の田舎町で観光省に勤務する人と友人関係にあった母はそこでもボランティア活動を行った。山本氏は母、姉と一緒に裸電球が1個しかない家で1カ月間過ごした。豚小屋で豚たちに餌を撒いたり、ココナッツの葉で作った箒で掃除を手伝ったりした。山本氏は母親の地道な取り組みと教育方針について次のように語る。
< たぶん母親は、わざと発展途上国を選び、子供らをまったく文化が違うカルチャーショックの中に放り込み、生きた経験の中でグローバルな世界観を学ばせたかったんだと思います。大体うちの家って、もう夏休みは終わっているのに帰ってこなかったり、逆に、夏休みに入る前にもう旅行に出かけたり。ほんと、自分たちの家の都合やルールで動いてたので、周囲からはちょっと変わった家族だって思われてみたいですね。>
豊かな社会で暮らしているからこそ、貧困状態で苦しむ人々がどういう心情に駆られているのかを知ってほしい。弱い立場にいる人々がどれだけ辛い目に直面しているのかを感じ取ってほしい。そういった熱い想いを抱いていた。山本氏は母の教育方針のもとで「地球市民」としての人格形成をつくったのだと思う。
山本家はどのような家庭環境だったのか。山本氏は、家では”鬼軍曹”と呼んでいたと述懐する。
< 家ではほんと、鬼軍曹でしたから(笑)。自分のことは全部自分でしなさい、掃除のやり方なんかはもう、ビッシリ完全に刷り込まれていた。だから旅行で飛行機に乗るときも甘やかされなかったです。母はビジネスクラス、僕たちはエコノミークラスなんですよ。「何で一緒やないの?」って小学生の僕が聞くと、「私は自分で努力して稼いで今、この席に座れてる。この席に座りたかったら、自分で稼げるよう頑張りなさい」って平気で区別されていました。>
「自分で努力して稼いできたから、この席に座ることができる。この座に辿りつきたいのなら、自力で稼ぐ力をつけるようにしなさい。」このような教えは山本氏に自立した思考を持った人間へ成長できるよう、奮闘努力を重ねることが最も大切だと伝えたかった。山本氏は母の厳しさを感じつつも、生きていることの有り難さや尊さを嚙み締めるようになった。
母の教え
かくして、母の真意はどうだったのか。
< [太郎の母は何よりもまず、息子たちの世界観を広げようとした。ともすれば、アメリカの基準をグローバルスタンダードだと勘違いする人が多い中、ときには貧しく不便な東南アジアの国に連れて行き、土地の子供たちと同じ生活を経験させた。マッカーサーが「アイ・シャル・リターン」という言葉通りに再上陸した太平洋戦争の激戦地であったレイテ島。州都タクロバンから、さらに車で3時間の山間地域は飽食の日本からは想像もできない発展途上の地であった。戦争の傷跡が深く残り、大地主制度で富が収奪されたアジアの第三世界で、世界はどういう現実から成り立っているのか、本当の意味で世界を見るとはどんな行為なのか、物心がついた頃から場数を踏ませた。権威や権力におもねらない一方で貧しい人や名もない人を下に見ない。太郎の偏見のなさはこの時期にできあがっただろうか] >
母の思想はアメリカを世界基準としたものではなかった。世界には富が栄える国がある一方、貧窮する国もある。一部のエリート層が巨大な権力を握るような体制に抗い、社会的に弱い人の立場に目を向けるべきだという信念が強かった。「それらの国の現実から目を逸らしてはいけない」という危機感を持ってほしかったのだろう。
山本氏は母の教えのおかげで、異国に対する偏見や先入観を持たない人間へ成長していった。
母は息子を育てる時、次のような想いを持っていたと言う。
< 母「私に子供が生まれたときに真っ先に考えたのは、まずは親がいつ死んでも困らないように自立できている子供に育てようと。ましてや母子家庭ですから、もし私が亡くなれば、子供はすぐに人様のお世話になる。どのような環境でお世話になっても、その子の腰が軽く自分のことは自分でできて、賢く、お手伝いもできるようにしないといけない。何でもやらせましたよ。太郎が幼稚園から帰ったら、その制服を畳ませては私が何度もぐちゃぐちゃにして、キチンと覚えるまで太郎に畳ませました。お泊まりに行くときは必ずシーツも持って行かせて干してくる。そしてそのお家のお掃除も徹底的にして帰る。うちでそうです。食事が終わったら、私が食器を洗って姉のまりあが拭いて太郎が戸棚にしまう。それと私の大学を出た時点で保険は終了。教育をつけれただけで財産だと思っていたんです。子供たちには小さい頃から私を通じて、本当の世間や人生で起こる様々な出来事を実生活で学んでほしいと思っていました。人が家に相談事をしに来るときは、人とは 世間とは 社会とはこんなものだと、話を教材としてありがたく聞かせていただきました。太郎は本当に勉強嫌いで、それでソロバン塾にだけは行かそうと思って、毎日塾に送っていたんです。でも太郎は私の車がいなくなると逃げ出していたんです。あとから分かったんですが、一度もソロバン塾に行かなかった。
厳しかった頃は、太郎は私のことが大嫌いだったんです。私に早く死んでほしいと思っていたんです。太郎のヤンチャに関しては、何があってもいつも非常時と考え、準備していました。>
貴重な証言だ。「山本太郎」という男を育てる時、どのようなことがあっても、「自分のことは自分でキチンと行うようにする」という彼女の教育方針は決して曲げることがなかった。たとえ息子に嫌われても、成熟した大人になってほしいという切なる願いがあったからだ。母親として、子育ての責任を全うしたのである。
映画監督・井筒和幸との出会い
それから、山本氏はバラエティー番組の企画で出場したことをきっかけに芸能への道を歩み始めた。駆け出しの頃は、「芸能界に向いていなかったのではないか…」と煩悶する日々を送っていたに違いない。そんな中、山本氏は映画監督の井筒和幸氏との出会いによって、俳優としての人生に転機が訪れたと振り返る。
< 仕事に目覚めたのは、そこから2,3年後じゃないかな。やっぱり井筒さんとの仕事が大きかったですね。WOWOWがスポンサーになった『突然炎のごとく』(1994年)という作品で。作りは映画なんだけど、劇場公開ではなく、WOWOW内で流れたのかな。個人的にはあれで目が覚めたっていうか、奥深い仕事で、なかなか及第点にまで届かないんだなっていうことに気が付いたわけです。
それまではけっこう、楽にオッケーもらってたんですね。今思うと、単に僕がど素人だったんで、演技を求めても大きく変わることもなかったろうし。あとテレビドラマは時間との闘いって部分もあるから。まあ、そこまでこだわって撮る人もそんなにいないですよね。でも、井筒さんは粘ってくれましたよね。
(撮影期間は)ちょうど3日間だったのかな。恋人が死んでるのを見つける役で、リアルに慌てふためくみたいなシーンがあったんです。でも、そんな経験もしたことないわけだし、難しいですよね。オーバーになりがちなところをちょっと抑えながら、ちょっと面白いエッセンスも入れてみたいな。ひとつの表現をするのに、いくつも注意点があって、それをぜんぶクリアした上で、もうちょっと自分の味ものせていくというような、すごく高いクオリティーを求められてるっていう。でも井筒さんの場合、NGを出したあともちゃんとした説明があって。ただ、「違う」「それじゃない」とダメを出す人もいるんですけど、ダメな部分、足りない部分っていうことに関して、どうしたらよくなるかという補足の説明があるんですね。
本当に時間がなくてギリギリのところなのに、自分ができていないからオッケーをもらえない。そういう辛い状況ってありますよね。追い込まれてる感というか・・・・・・。で、何回かやって、気持ちよくオッケーもらいたいじゃないですか。その気持ちいいオッケーももらえないというか。「カット」って言われてからカメラマンに「おい、今のどうやった、オッケーかな」みたいな(笑)。みんなと相談してから、オッケーって言葉が。でもそういうところが、こう・・・・・・自分のふがいなさというか、足りないものがたくさんあるんだろうなと思った。それまでは自分ができてるのか、できてないのかなんて分かんないですよね。どっちかっていったら、できてんちゃうかと思ってやってた部分があったんですよね。まあ実際、そのオンエアだったりとか、上映されてるものを観たとしても、初心者やし、これぐらいのもんやろ、しゃあないよなっていう開き直りみたいなものがあったんです。
やっぱりそういう本物の演出家と出会うと、その人の求めている以上のものを出せるようになりたいっていう欲望が初めて生まれたっていうところなんですかね。>
※太字は筆者強調
表現者として味わい深い演技を磨いてもらうために、井筒氏は山本氏に演技の良し悪しを指導していた。良いところがあれば、それを活かす。駄目なところはただ「駄目だ。」と決めつけるのではない。「どこがどういう風にして駄目な演技につながったのか。それをうまく修正するためにはどのような表現技法をすればよいか。」というヒントを与えてきた。真摯に向き合う井筒氏の姿に心を動かされた山本氏は監督が追求する以上の演技力を発揮できるようになるという欲が出てくるようになった。
こうして、山本氏は俳優として華々しい街道を突き進んでいくようになった。だが、「この先10年以上芸能界に留まることができるのだろうか?」という不安がつきまとい、山本氏は心の奥底で揺れていた。「あと10年は芸能界に居座ることができるかは不透明だな。」と薄々感じていた。
そんな時、2011年3月11日に東日本大震災が発生した。同時に福島県第一原発事故も発生した。津波によって住宅が海水に飲み込まれた。原子炉の内部にある炉心の冷却に失敗し、炉心を損傷する事故に至った。
福島県民がこぞって避難を余儀なくされた。中には生活に対する不安と鬱屈が渦巻く人々がいた。最悪の結末として「震災死」した県民も少なからずいた。
このような惨状を目の当たりにした山本氏は日本政府の対応の失敗と無為無策に憤りを感じざるを得なかった。徐々に既存の政治に対する疑念を持つようになった。やがて、山本氏は福島県で震災復興支援のボランティア活動を行ったり、反原発宣言を発したりするなど社会活動に邁進するようになった。次第に芸能界から仕事のオファーがなくなり、ブラウン管から姿を消した。
「国民が苦しんでいる日本の現状を黙って見過ごすわけにはいかんな。」
かくして、山本氏は日本の政治を変えるため、政治家としてセカンドキャリアを歩み始めたのである。
後編へ続く
<参考文献>
山本太郎『山本太郎 闘いの原点』ちくま文庫 2016
<参考サイト>
※以下のnoteの写真を借用しました。この場を借りて感謝を申し上げます。
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