『FLY HIGH』二人の間の約束②
タイの中心街に戻り、腹ごしらえをしようと決める鈴木ふみ奈と20歳の男は街中を歩いていた。バイクが連なる道路に面した歩道には誰も気にせず、ごく普通の日常を過ごしていた生活者が立ち並ぶのを目にした。食事を楽しむ黄色いシャツ姿の男。バイクの乗り降りをする青年。漫画『ワンピース』のゾロのプリントを装飾した抹茶色の長袖を着て、何かを見つめる少年。目線の先はふみ奈だ。彼女を見て、何を思ったのだろうか。
男はややご機嫌ななめな表情を浮かべるふみ奈を見て、「彼女を待たせちゃったかな。」と思った。
流れるような黒髪に白のインナー・タンクトップ。東南アジアの民族衣装に類似するアズライトブルーの長スカート。タイの生活感に溶け込む豊麗な女性が躍る姿を見た男はしばし固唾を呑むほどの心境に至った。
男はタイの食文化のことを思い出した。朝方、ホテルで朝食を終えた後、時間になるまで読書をしていた。スマートフォンでKindleを開き、旅行作家の吉田友和『いちばん探しの世界旅』という旅エッセイを読んでいた。このエッセイにタイの美味しい食文化が根づいていることを知った。
マンゴーを使ったデザートの写真を見て、思わずよだれが出そうになる。
男は「後で先輩にマンゴーデザートを奢ることにしよう。」と決めた。
「すみません。小腹がすきましたから、買い食いでもしましょう。」と男はふみ奈に提案し、さっそく市場をウロウロしながら歩いていた。
フルーツを一つ購入したり、眼鏡を試着してみたりと卸売市場を散策しながら楽しむふみ奈。彼女についていく男も何個かの野菜や果物を食べてみた。
まもなく夕方を過ぎる頃、買い物を楽しんだ二人は食事処を探していた。卸売市場を抜けた先に商店街が見え始めた。その街にタイラーメンの店を発見した。二人はさっそく中に入り、ラーメンを二つ注文した。唐辛子の効いた辛味と砂糖の入ったほんのりの甘さを醸しだす麵料理に舌鼓を打った。スープもススっと一口飲み込んだ。
男はタイラーメンの辛さを味わい、体の芯から温まるような食感に喜びを隠しきれなかった。
ふみ奈はタイ語で答えた。
男は「ええええ!」とビックリした表情を浮かべた。タイ語も流暢に話せることを知ったのである。worldwide(ワールドワイド)な人とはこの事なのかとつくづく思った。「でも、演奏会のあいさつでは何でタイ語を話さなかったのだろうか。」という疑問が頭をよぎった。あの演奏会はタイだけでなく全世界のネット中継で繋がれているのかもしれない。そう考えれば、今の状況は英語が世界の共通語だから、英語で挨拶をしたのだ。
翌朝、鈴木ふみ奈は朝の体操とストレッチを開始した。体調管理も音楽活動を持続するためのメニューに入る。「健康は経営のうちに入る」というのがふみ奈の信条だ。美味しい食べ物をたくさん食べるのはよい。だが、運動もしなければ日々の活動に影響を及ぼしかねない。体の不調を感じ始めた時こそ危ない。予防医学の観点から、できるだけストレスを抱え込まない。朝日をしっかり浴びる。腸の蠕動運動(腸トレ)も毎日欠かさず行う。こうして、ふみ奈は健康への投資に余念がないのだ。プロのアーティストとしての真骨頂を発揮するために。
" LET ME BE YOUR LAST & FIRST KISS "
「最初で最後のキスをさせて」
黒いシャツに印字された英語は何を意味するのか。これはひょっとして愛のひと時を過ごせるチャンスなのか。メッセージには意味深長な内容を含むところがあるに違いない。
まもなく昼になる頃、ふみ奈は藁屋根の建物が林立する近場の休憩所でキャラメル色のソファーに腰掛けながら、男が来るのを待っていた。オレンジジュースを味わいつつ、清々しい青い海の光景を横目に見ていた。虹色の水着に身を包み、網状のトップスを着用したふみ奈は早く砂浜を駆け回りたいという気持ちがあった。
ようやく到着した男は「ごめんなさい。待ちましたか?」と尋ねた。
オレンジの切れ端を口元に当てながら、にっこりと笑うふみ奈に男はたまらずグッときたような感覚を持った。
砂浜の近くにハンモックの繋いだ木を見つけた。ふみ奈は暑い日差しから逃れようと木陰に入り、木にぶら下がる。透き通るような乳白色の素肌はなんとも蠱惑的な姿態だ。男は「先輩は華麗の極致に達しているんだな。」とつくづく思った。
ふみ奈はしばらくしてハンモックに腰掛け、昼寝の時間に入った。色白の素肌に豊満な胸元、白魚のような手の持ち主を前にして、男は自らの欲情をなんとか抑えようとした。「先輩は美しい…」と言葉を交わしたかったが、理性が働き、その想いを心の奥にしまい込んだ。
目を覚ましたふみ奈は臀部を向けて、男の表情に目を向けながら笑顔を振りまく。筋トレを欠かさず行うふみ奈は肉つきのある臀部にさらに磨きをかけた。
無邪気にブランコで遊ぶふみ奈は青春時代と変わらぬ時間を大いに過ごしていた。どこに行っても引く手あまたの世界的な音楽家であるにもかかわらず、演奏の外に出れば、ごく普通の日常を楽しむ姿なのだと改めて実感した。男は彼女の楽しむ姿を見て、「真面目に勉強してきた自分が恥ずかしい。青春の日々なんて、めっちゃ忘れていたかもな。」と思った。
暗雲漂う世の中で、男は彼女を目の当たりにして、身の丈の豊かさによって叶えられる平穏な日常があることを発見したのである。
日差しが強い。海に近づくにつれ、砂浜を歩き出したふみ奈はしゃがみ込んだ。左膝で片方の胸を押し付けながら、水着のブラジャーの紐を外し、上半身が裸に見える姿を垣間見る。清々しくにこやかな表情を浮かべるふみ奈を前にして、男は遠目で見ながら「食らいつきたい」という性的欲情が出てしまった。だが、「いけない、いけない。」と抑えきれない想いを必死で心の奥底に封印しようとした。
男は「あ、ああ。」と返事をしただけだ。水着のブラジャーの紐を口にくわえた姿はまるで魅惑のフェロモンを誘うような気分になる。白の砂浜と乳白色の素肌がぴったり重なる。男は「乳白色の世界に触れる機会など滅多にない」と、彼女をしげしげと見ながら思った。
つづく
<参考文献>
吉田友和『いちばん探しの世界旅』産業編集センター 2021