【試し読み】『ミッドナイト・ライブラリー』(マット・ヘイグ [著])
ミッドナイト・ライブラリー
マット・ヘイグ [著] 浅倉 卓弥 [訳]
雨をめぐる会話
死を決意した日から遡ること十九年前のその日、ノーラ・シードは故郷ベッドフォードの町のヘイゼルディーン校にある小ぢんまりした図書室にいた。表の冷たい雨から守られた心地よいぬくもりの中、低いテーブルの前に座ったノーラは目の前のチェス盤を見下ろしていた。
「将来が心配になるのはごく普通のことですよ、ノーラ」
司書のエルム夫人がウィンクしながらそう言った。先攻はエルム夫人だ。白のナイトが、行儀よく並んでいた同じ色のポーンたちの頭の上を飛び越えていく。
「そりゃあもちろん、試験で大変な思いをすることだってあるでしょう。でもねノーラ、あなたはこの先、なりたいと思うものに何にだってなれるのよ。ありとあらゆる可能性を考えてみなさい。それだけでワクワクしてくるから」
「ええ、きっとそうね、そうだと思う」
「あなたの可能性は無限なのよ」
「無限の、可能性」
「なんだってできるし、どこに住んでもかまわないってこと。ここより暖かくて、こんなにじめじめしていない町にだって、好きに行ってみていいの。思いのままなんですからね」
ノーラは自分の黒のポーンの駒を、マス二つ分進めた。そうしながらも心の片隅では、無意識にエルム夫人を自分の母親と比べていた。いつだって母はノーラのことを、まるで大急ぎで糺さなければならない重大な間違いみたいに扱った。
たとえばノーラがまだ赤ん坊だった頃だ。娘の左側の耳が、右に比べてやや突き出しすぎではないかと思いついてしまった母は、悩んだ挙げ句にあろうことか、そちら側の耳を粘着テープで留めて、上から毛糸の帽子をかぶせて隠すといった暴挙に出たらしい。
「私はね、この町の寒さと湿気が実は大っ嫌いなんですよ」
ことさら大げさな口ぶりでエルム夫人が続けた。やや短めの夫人の髪は、すでにすっかり真っ白だった。きれいな卵型の顔には、わずかながら皺も目立ったが、とても優しそうだ。着ているタートルネックのセーターは、まさに言葉通り、亀の甲らみたいな緑色をしていた。夫人はもうかなりのご年配なのだ。
でも、学校中の誰と比べても、ノーラにとっては彼女と話している時間が一番楽だった。だから、仮に今日のような雨降りの日ではなかったとしても、ノーラはほぼ毎日、昼休みは必ずこの図書室で、チェス盤を挟んで夫人と過ごすことにしていた。
「寒さと湿気って、いつもセットで動いているってものでもないの」
ノーラは夫人にそう教えてあげた。
「むしろ南極なんて、地上でもっとも乾燥した大陸なのよ。事実上は砂漠といっていい」
「あらあら、まるでご近所さんの話でもしてるみたいな口ぶりよ?」
「そんなに遙か彼方ってわけでもないでしょ」
「どうやらあなた、宇宙飛行士にでもなった方がいいみたいね。少女よ、銀河を旅しなさい」
少しだけ笑ってノーラは一応指摘した。
「ほかの惑星になんて行ったら、もっとひどい雨に我慢しないとならなくなるわ」
「このベッドフォードシャー州よりも?」
「ええ、だって金星では純粋な酸が降ってくるんですもの」
そこで夫人は、羽織っていたジャケットのどこかからティッシュを引っ張り出すと、上品に鼻をかんだ。
「ほら、それだけ頭がよければなんでもできるし、きっと何にだってなれるわよ」
その時ふと、一面に雨粒を貼りつけていた窓の向こうを金髪の少年が駆け抜けていった。二つくらい年下だろうか。誰かを追いかけているのか、それとも逆に追われていたのか。
兄が卒業してしまって以降というもの、校内のほかの場所では、たとえそれがどこであれ、ノーラは落ち着くことが上手くできなくなっていた。自分がすっかり無防備である気がしたせいだ。もう誰も守ってはくれない。そう感じていた。だから図書室は、ノーラにとっては、世界からの避難場所でもあったのだ。
「パパは私がなんでも投げ出しちゃうと思ってるの。泳ぐこともやめたから」
「そう。私が言う立場ではないけれど、速く泳げるよりもたくさんのことが、世の中にはあるものよ。今のあなたの目の前には数々の違う生き方が扉を開けている。先週も言ったけど、あなたなら氷河の研究者にだってなれるわ。私もちょっと調べてみたのよ。そしたらね──」
電話が鳴ったのはその時だった。
「出た方がいいわね。ちょっと待ってて」
エルム夫人は穏やかな声でそう告げて、立ち上がった。
ノーラが見守る中、エルム夫人が受話器を手にして電話に出た。
「ええ、ええ、本人ならここにいます」
明らかな動揺を顔に走らせた夫人が慌てた様子でノーラに背を向けた。けれど静まり返った部屋の中では言葉は消えて失くなりはせず、ノーラの耳にも容赦なく入り込んできた。
「そんな、そんな、なんてこと。ええもちろんです──」
十九年後――
夜の来客
死を決意する二十七時間前、ノーラ・シードは自分の部屋のぼろぼろになったソファの上で手の中のスマートフォンの画面を次々に指でスクロールし、現れては消えていくほかの誰かの幸福な人生を見るともなく眺めていた。そうしながら、自分の人生にも何か起きてはくれないものか、と待ち侘びていた。
するといきなり本当に何かが起きた。ドアチャイムが鳴ったのだ。
一瞬出ないでおこうかとも迷った。まだ夜の九時前だというのに、すっかり寝間着姿だったからだ。環境保護団体のロゴの入っただぶだぶのTシャツに、タータンチェックのパジャマの下という格好ではいかにもだらしない。
多少なりともまともに見えるよう、足だけはスリッパに突っ込んだ。そうしながらドアを少しだけ開けると、玄関にいたのは顔見知りの男性だった。ひょろっとして少年みたいに背が高く、優しそうな顔つきだ。でも両目は知的で鋭くて、何もかもを見通してしまうようなまなざしをしていた。
突然の訪問に驚いたものの、彼に会えたのは嬉しかった。相手は、こんなに寒くおまけに雨まで降っているというのに、トレーニング用の上下でしっかり武装し、そのうえ全身に汗をかいていた。比べてしまえば、つい五秒前に感じていたよりさらにいっそう、自分のだらしのなさが身に染みた。
けれどひどく寂しかったことも本当だった。もっとも大学で実存主義を学んだノーラには、基本意味など持たないこの宇宙において、孤独こそが人間であることの根幹を為すものだとはわかっていた。それでもなお、アッシュの方から訪ねてくれたことには心が躍った。
「あらアッシュ──アッシュよね。いったい突然どうしたの? 会えて嬉しいけど」
数週間前、ノーラがこのベッドフォードのバンクロフト通り三十三番地Aにある部屋で電子ピアノを弾いていた時のことだ。やはり今と同じように、たまたま通りを走ってきたアッシュが、窓越しにノーラの姿に気づいて、手を振ってくれたことがあった。それよりもさらに数年前には、一度だけだがお茶に誘われたこともあった。ひょっとして今改めて誘いに来た可能性だって、決してなくはないだろう。心がそう期待した。
「僕も会えて嬉しいよ」
相手もそうは言ってくれた。だが顔に張りついていた緊張は言葉とは裏腹なものだった。
アッシュがノーラの勤める楽器店に足繁く顔を出していた時期も、過去にはあった。その頃のアッシュは、いつだって元気溌剌で爽やかだった。しかし今、声にはどこか似つかわしくない、重々しい響きがあった。
それきりアッシュは黙り込んだ。一旦開きかけた口も、またすぐに閉じてしまう。
「走ってたの?」
訊くまでもないことだった。こんな雨の中、こんな格好で表にいるのだ。ほかの目的など考えられない。けれども、そんな他愛のない話題が、ほんのわずかではあったが相手の緊張をほぐしてはくれたようだった。
「うん。日曜のハーフマラソンに出るつもりでね」
「そうなんだ。すごいわね。私も以前、マラソンでもやってみようかなって考えたことは、あるにはあるの。でもそこで思い出したの。そういえば私、走るのなんて大嫌いだったって」
この返事だって、頭の中で考えていた段階ではもうちょっと面白く思えていたのだ。だが、実際に声に出してしまうと散々だった。そもそもノーラは走ることに、嫌いになれるほどの関心を持ったことすらない。目の前のアッシュの顔からは、強張った感じがなお消えてはいなかった。また沈黙が流れ、居心地の悪さに胸がざわついた。
やがてようやくアッシュが口を開いた。
「君、猫を飼ってるって前に言ってたよね」
「ええ、うちには猫がいるわ」
「名前も覚えてるんだ。ヴォルテールだったよね? 確か茶トラの」
「そうよ。でも普段はヴォルトって呼んでる。ヴォルテールって名前は気取ってて嫌みたいで呼んでも反応してくれないの。十八世紀のフランス哲学には興味がないらしいわ。だから、縮めてヴォルト。まあ、こっちの方が断然呼びやすいから、きっと現実的なタイプなのね。猫にしてはって意味だけど」
アッシュの目はノーラのスリッパを見ていた。
「どうも彼、死んじゃったみたいなんだ」
「え?」
「道路脇に横たわって動かないんだ。首輪に名前があった。たぶん車に轢かれたんじゃないかと思う。残念だよ、ノーラ」
何も感じたくなくて、ノーラは笑ったままでいた。まるで、微笑んでさえいればついさっきまでいたのと同じ世界にとどまっていられるのだ、とでもいうように。むしろそう信じたかった。ヴォルトがちゃんと生きている世界だ。しかもそこでは、今目の前に立っている、自分が以前、お店で何度かギター用の楽譜を売ったことのあるこの相手も、きっとまったく別の理由でドアベルを鳴らしたのだ。
記憶が確かなら、アッシュは外科医のはずだった。もっとも獣医ではなく、人間相手のそれだ。だけど、そうだとしても、もしそのアッシュが〝何かが死んでいる〟というのなら、たぶんその何かは、間違いなく死んでいる。
「本当に残念だ」
すっかり慣れ親しんだ悲しみの感覚が再び首をもたげ出していた。今泣くのを押しとどめてくれるものがあるとすれば、せいぜい抗鬱剤だけだ。
濡れてあちこちひび割れた通りの敷石の上へと、ノーラはそっと足を踏み出した。もう呼吸も上手くできなかった。ジンジャー色の毛皮をまとったヴォルトは、雨で光ったアスファルトの上、縁石のすぐ傍らにいた。舗道脇の草むらに頭を突っ込んで、後ろ足は尻尾と同じ方向へまっすぐに伸ばしている。スキップでもしているみたいだ。それともひょっとして、目に見えない鳥でも追いかけているのだろうか。
「ああヴォルト、嘘、なんてこと──」
今自分が感じるべきは、たぶん、友人を失くした悲しみと、そして絶望となのだろう。それはわかっていた。実際、今にも押し潰されそうな気持ちだったことは本当だ。
けれどノーラは同時に、胸のほんの片隅にひどく異質な、ほかのあるものが紛れ込んでいることにも気づいてしまった。
ヴォルテールはとても穏やかな表情で目を閉じていた。苦しむこともなかったのだろう。その顔を見下ろしながらノーラは、暗がりの中から避けがたく湧き出す、自分自身のその感情を自覚した。嫉妬だった。
弦理論
死を決意する九時間前、ノーラは午後のシフトに入るため、勤め先の楽器店〈弦理論〉へとやってきた。
「本当にごめんなさい」
窓もなく薄汚れた真四角な事務所の一室で、ノーラはまず、店主のニールに謝罪した。
「でもゆうべ、猫が死んでしまったの。それで、夜中に埋めてあげなくちゃならなかったの。その間は手伝ってくれた人もいたんだけど、その後、一人きりになったら、すっかり眠れなくなってしまって。おまけに目覚ましをかけるのを忘れて、気がついたらお昼を過ぎていた。そこでようやく大急ぎでやってきたらこうなったのよ」
全部本当のことだった。それに、今自分がどんな様子かもわかっていた。化粧もしていないし、間に合わせのポニーテールは不様なくらいに乱れている。しかも着ている古着の緑色のコーデュロイのエプロンドレスは、この一週間、表に出る時はずっとこれ一着で間に合わせていたせいで、とことんよれよれだ。そのうえどっぷり悲嘆に暮れているのだから、今の弁明だってきっと聞いてもらえる。
パソコンから顔を上げたニールが、背もたれに預けていた背中を静かに反らせた。顔の前で組んだ手の両方の人差し指を立て、先っぽを合わせて尖塔みたいな形を作っている。さらにはそれを自分の顎の下へと運ぶものだから、たちまちニールは〝遅刻してきた従業員をどう扱ったものかと思いあぐねている楽器店の店主〟などではなく、〝宇宙に関する深遠な哲学的真理に思いを巡らせている孔子〟みたいに見え出した。向こう側の壁では、フリートウッド・マックの超特大ポスターが右の上の端から剥がれかけていた。その箇所が仔犬の耳みたいにうなだれていた。
「俺はな、お前のことは気に入っているんだぞ、ノーラ」
ニールは五十代半ばのお人好しのギターフリークだ。好きなものは下手くそなジョークと、それに、店で不定期に催すライブでボブ・ディランの初期ナンバーのカバーを披露することだった。ジョークはともかく、歌の方は悪くなかった。
「お前が心の問題を抱えていることもわかってはいるつもりなんだ」
「心の問題なんて──そんなの、誰にだってあるわ」
「言いたいことはわかってるだろう」
思わず嘘が口をついた。
「これでも最近はずいぶんよくなったのよ。病院にだってもう通わなくていいの。診断は適応障害だった。きっと一時期いろいろなことがあったせいよ。でも、それで店を休んだことなんて一度もない。あ、でも──母の時は別。だけど、それだけよ」
ニールがため息を吐き出した。するといつものように、鼻からも笛みたいな音がもれた。音程も同じだ。不吉極まるB♭だ。
「ここで働き出して何年になるんだった?」
そんなの、わかりすぎていた。
「十二年と──十一ヶ月と三日。毎日じゃないけど」
「ずいぶんと長くになったよな。もっとまともなことを始めていい頃合いだ。もう三十代後半だろう」
「三十五よ」
「いい話だってそこそこあるんだろう? ピアノも教えてるんだっけ?」
「生徒なんて一人だけだもの」
ニールが自分のセーターから毛玉を摘まみ取る。
「なあ、昔のお前は、こんなふうに楽器屋の店員なんてやりながら、必死で故郷にしがみついている自分の姿を思い描いたりしてたのか? たとえば十四くらいの頃だ。その頃描いていた未来の自分は、いったいどんなふうだった?」
「十四の頃? だったら水泳選手だわ」
その当時のノーラは、自由形でならば全国最速の十四歳だったのだ。平泳ぎでは二番目だ。競技会で表彰台に昇ったことも忘れてはいない。
「それでどうなった?」
思わずノーラは目を閉じた。二位に終わった時の悔しさが、塩素の匂いとともにありありと甦ってきたせいだ。
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続きは本書でお楽しみください。